【ラグリパWest】アカクロ、沖縄を経て母校に帰る。細川明彦 [京都工学院コーチ]
細川は在学中に中高の社会の教員免許を取得。卒業後、日体大で1年間の科目履修生となり、保健・体育のそれも取った。
そして、沖縄にゆく。
在学中に同期の近藤嵩と2人で名護高を教えた。日程は4泊5日。早稲田が1984年から毎年行っているコーチングだった。
「風景の美しさ、人もいい。ラグビーの普及に携わりたい、と思うようになりました」
名護高の監督だった宮城博に相談する。要請が来たのは宮古島からだった。
「ググってびっくり、台湾やん、と」
亜熱帯の島の西には、石垣島などを含む八重山列島があるが、台湾にも、沖縄本島に行くのも、距離はそう変わらない。
島では宮古高を教える。監督の辺士名斉朝(へんとな・ただとも)を助ける。押しかけコーチのため、生活費はコンビニのバイトで稼いだ。夜中12時から朝9時まで働いた。
「時給は深夜でも900円くらいでした」
2008年から2年滞在する。
その後の2年はニュージーランドで暮らす。
「ワールドカップを見る夢がありました」
首都・ウエリントンの日本食レストランで働く。2011年、ワールドカップが始まる。時を同じくしてメールで吉報が入る。
宮古が名護を91回全国高校大会予選で25−21と破った。連続出場記録を11で止める。決勝ではコザに0−40も充実感を得る。
「夢を持たす、本気にさせるということですね。目の色が変われば、逃げなくなる」
帰国後の2013年、再び宮古島に渡る。次は保健・体育の講師としてだった。中学で6年、高校で2年、教べんをとりながら、主に宮古高を外部コーチとして見る。その生活の中、母校からの呼び戻しが入る。
今、府内を京都成章が席巻する。V4の85回大会(2005年度)以降、全国大会出場は伏見工の5に対し11。95回記念大会で両校が出てから、5大会連続で京都成章が花園に行く。伏見工は2018年度に京都工学院に校名が変わってから、出場はない。
悩みながらも帰る決断をする。
「僕を必要としてくれていることを意気に感じました。自分の原点ですから」
京都は生まれ育った場所でもある。競技を始めたのは13歳、音羽中の1年だった。家族4人、両親と姉と兄は今もこの地に住む。
この4月から京都工学院の社会科の講師として、教壇に立ち、ラグビーを教える。
「細川が正教員になってくれたら、うれしいなあ」
総監督の山口良治は言う。78歳。監督就任6年で伏見工を全国初優勝させた軌跡が、テレビドラマ『スクール★ウオーズ』になった。その伝説の指導者は期待を寄せる。
目標は日本一?
「はい」
簡潔な答えに覚悟がにじむ。今、大島の精神力に、細川の理論が加わる。深紅のジャージーの完全復活はその光度を上げた。