コラム
2018.07.27
【藤島大コラム】罪と罰
1972年12月5日、イギリスを発つキース。本国へ戻ると思われたPRは忽然と消えた(Getty Images)
■おのれを語らぬ男が、いっぺんだけ「俺は、昔、ラグビーをやってた」とつぶやいた。
キース・マードックの最後の日々がここにきて報じられた。奮闘しているのはオーストラリア・パースのサンデー・タイムズ紙のトニー・バラス記者である。なぜ、かの地のジャーナリストがこのことに強いのかは後述する。
かつてのオールブラックスの小さな山のようなプロップ、マードックは、本年2月27日、74歳で死んだ。同3月30日、ようやく、その事実は明らかとなる。元代表選手だからラグビーの盛んな国の新聞各紙に訃報は流れる。ただ、そのスペースはいかにも巨大で、ほとんど歴史上の人物のようでもあった。見出しには「ミステリアス」の綴りがあった。
1972年12月2日。オールブラックスは、敵地カーディフで、ウェールズと対戦、19―16で勝利する。マードックが唯一のトライを挙げた。選手名鑑をひもとくと「183?、110?」。「胸囲122?」の記述もある。
アマチュア時代として格別な体格である。同夜の交歓会後、競技場のすぐそばのエンジェル・ホテルで、この大男はトラブルを起こす。空腹のためキッチンに忍び入り、警備担当者ともめて、どうやら殴った。
いまから思えば、ここが問題なのだが、オールブラックスの首脳陣は、英国の協会、なによりロンドンのメディアからの圧力に過剰に反応する。事実の精査よりも先、出来事の2日後にマードックの「本国送還」を決めた。天国から地獄。テストマッチのヒーローは、単身、シドニー経由で母国のオークランドへ帰る。帰るはずだった。
だが、マードックはそうしなかった。フライトを変更、シンガポールで降り、オーストラリア・ダーウィン行きに乗り換える。以来、死の瞬間まで、荒涼で広大な「アウトバック」と呼ばれる内陸部、さらに晩年を過ごした西オーストラリアに巨体は消える。このとき29歳。ラグビー仲間との連絡を一切断ち、そのまま故郷から離れ、季節労働、鉄道工事などの糧で孤独を貫いた。
ここまではよく知られている。このほど冒頭の新聞が、地域のメディアとして、晩年を過ごしたカーナーボーンという町(パースから900?北)の酒場の友を取材、静かで、過去を明かそうとしなかった男の輪郭が明らかとなった。電気工事技術者のディーン・パリーは、マードックと、しばしば、ガスコイン・ホテルでビールを飲み交わした。往時の怪力プロップは「XXXXゴールド」が好みで3缶か4缶を胃袋へ収めた。
53歳のパリ―は「この10年の最良の友」であり、死を覚悟したマードックから「近親者」に指名された。それなのに「彼がニュージーランド人ということすら知らなかった」。いつかパブでオールブラックスの試合をテレビ観戦していると、おのれを語らぬ男が、いっぺんだけ「俺は、昔、ラグビーをやってた」とつぶやいた。パリ―は「たぶんワールドカップの決勝だったと思うが、正直、覚えていない」と話した。
バラス記者は書く。「カーナーボーンの町では、ひとりとしてマードックの秘密を知らない。ただ店の隅に座り、黙っている大男のキースだ」。上下とも青の作業服で、タバコを吸わないのに、よく外の喫煙ベンチに腰かけて、信号の灯りをじっと見つめていた。
オールブラックスであっても金銭の報酬のなかった時代、たった一夜のトラブルで、ほとんど世を捨てた。奇人の奇行なのか。違う。瞬間の粗野。終わりなき潔癖。罪と罰はいかにも不均衡だ。その人生のアンバランスに黒のジャージィをまとった者の誇りはにじむ。
と、書いて、現在ならどうか、と考えてしまう。レベルズでのアマナキ・レレイ・マフィのケースも広く世界に流れた。執筆時にニュージーランドの司法判断は不明だ。ただ、すべてのプロフェッショナル選手にキース・マードックについて知ってほしいとは思う。
【筆者プロフィール】
藤島 大(ふじしま・だい)
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。著書に『人類のためだ。ラグビーエッセー選集』(鉄筆)、『ラグビーの情景』(ベースボール・マガジン社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)、『楕円の流儀 日本ラグビーの苦難』(論創社)、『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鉄之祐』(文藝春秋)などがある。また、ラグビーマガジンや東京新聞(中日新聞)、週刊現代などでコラム連載中。J SPORTSのラグビー中継でコメンテーターも務める。