【村上晃一の楕円球ダイアリー #14】デフラグビーの景色を変えた。日本発の「サイレントレフリー」
2026年11月3日、第3回7人制デフラグビー世界大会の決勝トーナメントが秩父宮ラグビー場で開催された。
聴覚障がい者のラグビーは日本では1990年代から始まり、競技人口は少ないながらも関係者が知恵を出し合って歴史を積み重ねてきた。
初めて世界大会が行われたのは、2002年(ニュージーランド)だ。このときは15人制、7人制、両方の部があった。
日本代表の監督を務めたのは大阪体育大学出身の吉識伸さんで、11月3日の秩父宮ラグビー場にもその姿があった。
「(考えられないほどの)大勢のお客さんがいて、それを見ただけで涙が止まりませんでした」
初日(10月31日)は江東区夢の島競技場、2日目(11月2日)はスピアーズえどりくフィールド、最終日の秩父宮ラグビー場も含めて総観客数は4700名。決勝トーナメントには2500名の観客が訪れ、手話による応援で盛り上がっていた。
男子の優勝はイングランド代表、女子はオーストラリア代表。日本の女子は競技人口が少ないこともあって、日本から唯一出場した小林美晴選手が世界選抜ともいえるバーバリアンズのキャプテンを務めた。
男子日本代表は準々決勝で過去2回優勝しているウェールズに敗れたものの、12-10という2点差の接戦を繰り広げ、着実なレベルアップを感じさせた。
柴谷晋ヘッドコーチは悔しそうに語った。
「あと2試合、このチームでやりたかったです。目標は2つありました。世界一になること、そして、聴こえなくてもラグビーはできるのだと示すことです。2つ目は示すことができたし、選手たちの可能性を見せることができました」
手話による応援は選手たちにも確実に届いていた。近畿大学で健聴者とともにプレーした経験のある小林建太選手の言葉が印象に残った。
「応援の力をラグビー人生で一番感じました」
筆者は、1994年、ラグビーマガジンが初めてデフラグビーを記事にしたときに編集長を務めていた。
難聴でありながら帝京大ラグビー部で全国大学選手権にも出場した大塚貴之さんを描いた「とどけ!ボール つながれ!ぼくらの言葉」(あかね書房)を上梓したこともあり、デフラグビーの歴史はある程度知っている。今大会の盛り上がりを感慨深く見つめた。
印象に残ることが多い大会だったが、今回から導入された「サイレントレフリー」は画期的だった。
従来のデフラグビーのレフリーは笛を吹いていた。選手の難聴の程度はさまざまで、ある程度は聴こえる選手からまったく聴こえない選手もいる。
これまでは、笛が鳴ると聴こえる選手やタッチジャッジが大きなジェスチャーで聴こえない選手に伝えていた。これでは難聴の程度によって反応速度に差が出てしまう。
疑問を感じ、サイレントレフリーを開発して提案したのは日本のデフラグビー関係者だった。
柴谷晋ヘッドコーチもそれを世界に発信してきた一人だ。
「反対の声もあったのですが、最終的にはまとまりました。日本大会の理念は、EQUAL THROUGH RUGBY(ラグビーを通しての平等)ですから。実際にやってみると、わかりやすいし、世界各国の選手からも好評でした」
サイレントレフリーは笛を持たない。目立つ色の手袋をして、笛の代わりにタオルを持ち、反則が起きたら、大きなジェスチャーで手を振り、ブレイクタウン(ボール争奪戦)で倒れている選手には、目につきやすい位置にタオルを投げる。
スクラムを組むときの「クラウチ、バインド、セット」のかけ声は、トンネルの中に手を差し込み、パーでクラウチ、グーでバインド、手を引いてセットを表す。
キックオフは膝をついた状態から立ち上がり、ラストワンプレーでは、タッチジャッジやインゴールジャッジもタオル(または旗)をぐるぐる回す。
ノーサイドはレフリーが膝をつく。これであれば、難聴の程度で反応の差は生まれない。
大会前、日本代表の練習試合では健聴者のチームとも戦ったが、サイレントレフリーを採用していたという。
聴こえるか聴こえないかにかかわらず一緒にラグビーを楽しむことができるのだ。
サイレントレフリーについて話す柴谷ヘッドコーチは楽しげだった。
「レフリーも練習してこの大会に臨んでもらいましたが、だんだんタオルを投げるコントロールが良くなって、距離も伸びていましたよね」
選手、観客にわかりやすく、レフリーも楽しんでできる。それが日本発信なのが嬉しい。
デフラグビーに関わる人々は長年、「どうすればもっと公平に、もっと楽しくプレーできるか」を考え続けてきた。
その積み重ねが「EQUAL THROUGH RUGBY」を形にしたサイレントレフリーを生み、この日の秩父宮につながったのだろう。
スタンドを埋めた観客の姿を見ながら、デフラグビーが歩んできた道のりを想い、未来への広がりを感じていた。




