【村上晃一の楕円球ダイアリー #6】戦争をしないためのラグビー
2025年12月17日(水)、JR立川駅直結の朝日カルチャーセンター立川教室で行われたラグビー講座のことを書きたい。
タイトルは「藤島大が語るラグビーの魅力 戦争をしないためのラグビー」。
筆者が進行役をした。戦後80年の今夏、朝日新聞に「非戦のためのラグビーとは」という記事が掲載された。インタビューを受けていたのはスポーツライターの藤島大さんだった。
その内容を読み、これを実際に語るトークライブをしてほしいと思い、大阪で一度実施し、東京でも企画したものだ。
さまざまなメディアで健筆をふるう藤島さんは、早稲田大学在学中はラグビー部に所属し、名将・大西鐵之祐さんの指導を受けた。大西先生は、「君たちはなんのためにラグビーをするのか、それは戦争をしないためだ」と語った。
その真意を藤島さんが語ってくださった。僕は何度もこの話を聞いているが、今回も言葉が心にしみわたった。
大西先生は、自らの戦争体験をもとに平和を訴え続けた人だ。
その著書「闘争の倫理」(鉄筆文庫)に詳しく記されているが、「闘争の倫理」とは簡単に書けば、真剣勝負のラグビーの闘争の渦中に求められる倫理のことだ。
藤島さんは、大西先生が「戦場体験者」であることが大きいという。
戦場体験からくる反戦思想は重い。目の前で親友を殺されたら、普段は温厚な人も狂ったように捕虜を殴る。戦争になったら、もう終わりなのだと。
だから、戦争に走りそうな世の中になってきたら、「ちょっと待てよ」と行動できる人を育てなければいけないのだと、大西先生は説いていた。
それは机上の勉強だけでは学べないものだ。
藤島さんはこんな話をしてくれた。
「ラグビーの試合中、対戦相手の主力選手めがけてパントキックをあげて、キャッチしたあとに倒し、もし相手の頭が見えていたら、そこに思いりぶつかれば怪我で退場させることができるかもしれない。ルールに違反しなくても、やろうと思えばできる。だが、そうしない。力を緩める。ここなのです」
合法的に怪我をさせることはできるけれど、それはしたくないと思う人間を育てなくてはいけない。真剣勝負の中で感情をコントロールすることを学び、法律を守っているかどうかではなく、自分のしていることが、きれいか、汚いかで判断できる人間が、社会に散らばって、戦争しない国を守っていく。
社会の盾になるということなのだ。
ラグビーはそんな人を育てる要素を持っている。しかし、ただラグビーをすれば、汚いことはしない人間が育つわけではない。
なんとしても勝ちたいと願い、万全の準備をして、全身全霊をかけて戦う中で、それでも、汚いことはしないという気持ちが芽生える。
相手の立場を尊重し、お互いに、きれいに良い試合がしたいと願う。とことんラグビーに向き合い、戦ったものが至る境地だ。
そして、そんな選手たちを支えるコーチやスタッフにも、気持ちは伝わっていくものだと僕は思っている。
戦後80年の節目に、こうしたラグビー講座を企画できて良かったし、「闘争の倫理」を伝え続けなければいけないと、思いを新たにした。
本筋とは少しずれるが、最後に大西先生の著書「ラグビー」(旺文社)のなかにある一節も紹介しておきたい。
特に、アマチュアである高校、大学などの全国大会は、こんな気持ちで観戦してもらいたいのだ。1954年に刊行されたものだが、70年以上経た今も、大切なことは何も変わっていないと思う。
【ラグビーはプレーするものである。決してみせるものではない。だから見る人も、勝敗とか、面白いとか、華やかだとかを目的とするなら、決して満足した観戦はできないだろう。プレーヤーはなんら観衆のことなど考えていないのだから。彼らはただいかにフェアに自己のベストを尽くしてゲームをするか以外は眼中にない。彼らは真にラグビーが好きでやっているのである。だから見る人もまた、何も求むることのない心をしっかりと見てもらいたい。しかし、これは仏心のような「空」の心ではない。もっと人間的な勝利にともなう名声、栄誉、歓喜などを要求しながら、しかしそんなものよりなおかつ、プレーヤーとしていかに立派に、ラグビーマンとしての伝統と矜持にかけて、このゲームをやり通すということに全力を傾注している真摯な選手に拍手を送ってもらいたい。こうした観衆に取り囲まれたゲームこそ、筆者の最も望んでいるものである。観衆が一人でも二人でもよい。こうした愛情の眸(ひとみ)の中にゲームをやれるプレーヤーほど幸福なものはないであろう】




