相模台工業を日本一に導いた闘将の米寿を教え子たちが祝福。「松澤友久監督を囲む会」開催。
11月の雲一つない秋晴れのもと、かつて神奈川県立相模台工業高等学校(通称台工)のあった小田急相模大野駅のホテルにて、同校ラグビー部を約四半世紀(1971年〜花園初優勝の1994年まで)率いた闘将、松澤友久元監督の米寿を祝う「松澤先生を囲む会」が開催され、松澤先生に育てられた台工ラグビー部のOB、OG約120名が集結した。
台工ラグビー部は、激戦区の神奈川で無名校から花園常連校へと一時代を築き、1973年から1995年にかけ花園出場16回(うち優勝2回、準優勝2回、4強4回、8強4回)を誇る名門(現在は神奈川総合産業高校に統合)。卒業生には福岡進氏(日体大→リコー)、福室清美氏(日体大→IBM)、井沢航氏(大東大→東京ガス→三洋電機)、溝部圭史氏(関東学大→東芝)、難波英樹氏(帝京大→トヨタ自動車)、岩間保彦氏(帝京大→トヨタ自動車)ら、多くの日本代表選手が名を連ねる。
松澤元監督は1971年に台工に赴任。ラグビー部監督に就任するや、校内で体格のいい生徒を積極的に勧誘し、それまで県大会1、2回戦で敗退だった無名の台工をわずか2年で花園初出場を果たすまでに育て上げた(1973年花園初出場)。また、当時は神奈川県内の中学校にラグビー部が存在していなかったが、中学校の体育教師の間では松澤先生の熱血ぶりは有名で、部員の多くは中学時代に体育教師から台工ラグビー部を勧められるほど熱い勧誘を受けた者たちであり、9割がラグビー未経験者であった。
今回の「松澤友久監督を囲む会」では、はじめに松澤先生が就任した年に入学し、3年で初の花園出場を果たした10期生の寺山浩三氏、西岡忠弘氏の両名がステージに登壇。松澤先生との思い出と、米寿を迎えられた恩師へ祝辞を述べた。

それに応える形で松澤先生は、台工ラグビー部が花園で優勝2回、準優勝2回を果たすまでの長い間、厳しい練習に耐えた部員たちへの御礼を語るとともに、「88歳と年齢を重ね体力は衰えてきているものの、まだ一発のタックルだけは負けないつもりでいます」と当時では考えられない穏やかな松澤節で会場を沸かせた。また台工ラグビー部マネージャーの橋口氏(旧姓狩野)から、花束贈呈もおこなわれた。

続いて勝又修氏(13期生・現相模原市スポーツ協会会長)の発声による乾杯となり、以降は一同が昔の台工ラグビー部に戻って、当時は厳しかった先輩との親睦を深めあった。歓談中の会場では、卒業生が松澤先生と昔話で盛り上がり、初優勝当時の特集映像なども上映されるなど、とても賑やかな会となった。

会の後半では、司会役の荒川治氏(28期生・現横河武蔵野アトラスターズGM)の号令で、花園で初めて松澤先生を胴上げした初優勝時のキャプテン、浦田昇平氏(30期生・現三菱重工相模原ダイナボアーズ事業統括)を中心に先輩・後輩関係なく120名が肩を組み、試合前のロッカールームで泣きながら歌った部歌を大合唱。場内の熱気が最高潮に達する中、中締めに登壇した板井良太氏(17期生・現関東学院大学ラグビー部総監督)は松澤先生の拡声器が壊れるほどの当時の熱血指導ぶりを振り返り、いま先生と同じ指導する立場の者として、先生ほどの熱血ぶりは行えないものの、昔叩き込まれた松澤イズムを現場で継承してること、台工OB・OGたちで松澤先生を囲んで楽しい時間を過ごせている事へ感謝を述べ、散会となった。

大盛況のうちに幕を閉じた「松澤友久先生を囲む会」。発起人である田川大輔氏(28期生)は、「先生はいまだに台工ラグビー部を卒業した約500名を覚えており、全員を我が子のように気にかけていたので、その熱い思いに報いることができて本当に良かった」と安堵していた。




