【ラグリパWest】ラスト・シーズン。中井俊行 [大阪体育大学/准教授/ラグビー部部長]
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中井俊行が大阪体育大学に来たのは18の時だった。来年の1月15日で62歳になる。准教授としての定年に達する。
その44年の間、キャンパスは北摂の茨木から泉南の熊取に移った。中井は妻を得て、一男一女に恵まれた。
「長いなあ。数字で示されるとそう思う」
その丸い顔は笑み崩れる。アニメに出てくる優しい熊のような雰囲気が漂っている。
定年はまたラグビー部との別れを意味している。中井は部のトップ、部長でもある。来るべき最後のシーズンを見据える。
「昇格、それしかない」
関西リーグのB(二部)の開幕は今月21日。大阪教育大と戦う。
中井はこの通称「体大」(たいだい)のラグビーの栄光を知る。大学4年時の1985年(昭和60)には、主将として英国バーバリアンズを模した白黒ジャージーを世に知らしめた。
同志社の関西リーグ連勝を71で止める。このリーグ記録は11年に渡って積み上げられた。スコアは34-8である。
「うれしかったなあ。優勝するより、あの頃は同志社に勝つことが先やったから」
中井は170センチ、85キロのPRだった。自分を含めた先発15人を今でも空(そら)で言える。FBはひとつ下の村上晃一。ラグビージャーナリストになった。
リーグ戦は優勝する。京産大にこそ0-4と及ばなかったが、同志社を含めた3校間の得失点差で勝る。1968年の創部以来、初の頂点だった。開学はその3年前である。
リーグ戦に続く大学選手権は22回大会。1回戦で優勝する慶應に23-30で敗れた。
「あれは前半にとられすぎた」
前半は4-30。3年ぶり3回目の出場だったため、ほとんどの選手は大学選手権に出ていない。緊張があったことは間違いない。
卒業後の進路は中島直矢が定めてくれた。学生部長やラグビー部部長をつとめた。
「中井くん、残すから」
中島は功労者に報いたい、と考えた。中井は体大の大学院から教員畑を歩む。専門はラグビーとコーチング学。部ではコーチとして監督の坂田好弘を支えた。
中井の印象に強いのは、大学選手権で部史上最高の4強に入った代だ。
「高橋と平瀬が主将やったな」
高橋一彰の26回大会(1989年度)は早稲田に12-19、平瀬健志の43回大会は関東学院に3-34。勝者はともに優勝する。
PRだった高橋の時はウエイトトレに注力する。その肉体の鍛え上げで「ヘラクレス軍団」と言われた。現在はトヨタVのシニアアドバイザー。CTBだった平瀬はRH大阪のアシスタントコーチについた。
監督として強豪化させた坂田の影響は中井に色濃く残る。
「坂田先生は毎日、グラウンドに出てはった。最後は気持ちやで、とよく言ってはった」
坂田の監督就任は創部の9年後。大学選手権出場27回うち4強3回、関西リーグ優勝5回のチームを作り上げる。
坂田は近鉄(現・花園L)の現役時代、日本代表のWTBとしてキャップ16を得た。2012年に教授として70歳定年を迎え、同時に監督と部長を退任。関西ラグビー協会のトップ、会長についた。中井は2013年から部長職を引き継いだ。2021年からの3年間は坂田と同じように監督も兼務した。
中井の体大入学は、その坂田が監督に就任して6年目だった。体育の教員を志望した。体大に決めたのは、中学のラグビー部顧問だった安藤武士が初期の頃のOBだったこともある。中学は大阪の枚方(ひらかた)にある楠葉(くずは)だった。
中井は1年冬からラグビーを始めた。
「それまでのバレーボールが自分には面白くなかった。ラグビーは友だちが多かった」
高校は大阪の公立校、牧野だった。そこから体大で44年を過ごすことになる。
中井にとって最後の主将は羽田賢信(はだ・けんしん)である。京都工学院出身のCTBだ。
「中井先生は温かく見守ってくれて、端的にアドバイスしてくれます」
早めに飛び出し、オフサイド気味の選手の名前を挙げて、羽田に告げる。中井は部員を尊重し、彼らの中での改善を望む。大学生を教え、導く人間らしい。
羽田の最終学年の目標も中井と同じ、「昇格」だ。自身が先発した昨年12月の入替戦は、ロスタイム14分の間に2トライを奪われ、関西大に18-19で惜敗した。体大は2020年からBリーグで戦い、今年で6年目になる。
昇格への視界は良好だ。先月の菅平の夏合宿で、Aチーム(一軍)は3戦全勝。関東リーグ戦2部の拓大には36-26、日大には29-26、日体大には42-35だった。
「全部、接戦やったけどね」
中井は謙遜するが、3連勝は乗ってゆける。
勝利と同時に部員たちの安全無事も願う。
「大きいケガをせんかったらいいなあ」
ここまで40年を超える体大での生活の中で、グラウンド上で後遺症の残るような重傷事故に遭遇したことはない。
ただ、強い悲しみは今でも残る。33年前の秋、交通事故で松浦文雄を亡くした。3日後の同志社戦にFBで出場予定だった。遺影とともに戦った結果は8-21だった。
命の大切さや子を持つ親の気持ちを中井は十二分に理解できる。長男の悠人(ゆうと)は清教学園の高校から競技を始め、LOとして大阪教育大でも続けてくれた。
ラスト・シーズンが終わったあと、来年4月からの予定は決まっていない。
「何しよか?」
中井は大学から残留を打診されたが、「もういいでしょう」と断った。お腹いっぱい。後進に道を譲る気持ちもそこにはある。
体大にいるのはあと6か月半。シーズンは3か月ほど。盛時を知る中井にとっては勝って締めたい。そのためにも、坂田のように、グラウンドに立ち続けながら、羽田が表現したように、学生たちを温かく見守ってゆく。