気力で生きる。がんと闘い続けたプロラグビー選手・田中伸弥の記録。【前編】

神様は彼にどれだけの試練を与えれば気が済むのだろうか。叶うことなら、もう放っておいてやってくれないか。もう十分だろう。
田中伸弥。2024年、プロラグビー選手としてのキャリアに終止符を打った。
何度も苦難に立たされ、打ちのめされても、そのたびに不死鳥のように舞い戻ってきた。「気力」。それが彼の強さの根源だった。
現在はS&Cコーチとして活動しながら、ガンサバイバーとしての発信も続けている。この記事は、彼が生きるために、何を思い、何を越えてきたのかに追った記録である。
◆異変のはじまり
中学の時に2つ上の兄・健太(現花園L)の影響でラグビーを始めた。思いきり体をぶつける、それが性に合っていた。
高校は兄と同じ大阪桐蔭に進学。タックルを武器に、全国の舞台で戦った。
大学は近畿大学に進み、得意のタックルにさらに磨きをかけてレギュラーの座をつかんだ。タックルをしてはすぐに起き上がり、またタックルを繰り返す。 決して器用なプレーヤーではない。派手なプレーもできない。 だが、ひたすらに体を張ることができる。そんな姿勢が、仲間からの信頼を勝ち得ていた。
大学4回生のシーズン、入替戦回避をかけて挑んだ最終戦、京都産業大学戦。「運命のタックル」で知られる試合である。詳細はここでは割愛するが、その試合を機に、彼と相手選手はともに大きな試練に直面することになる。
その数日前から、伸弥の体には異変があった。 練習中に息が上がりやすく、立ちくらみが頻発し、夜になると熱が出て顔が浮腫む。 当初は疲労によるものかと思われたが、チームドクターのすすめで診察を受けることになる。
「白血球の数が異常です」——医師の言葉を聞いても、最初は事の重大さを理解できなかった。 詳しい検査を受けるため入院するが、それでもまだ深刻に受け止めてはいなかった。
◆命をゆさぶる告知
診断結果は「胚細胞腫瘍」——がんだった。
まさか自分が、がんになるなんて。 数日前まで仲間と共にグラウンドに立ち、トレーニングをしていた。その現実を受け入れるには、あまりにも急すぎた。
「それ以上なにも聞きたくなかったし、何が何だか訳が分からず外に出ました」
診察室を出て、逃げるように病院の外へ。 22歳の青年にとって、「がん」と「自分の人生」が結びつくなんて、到底想像できなかった。追い打ちをかけるように突きつけられたのは、「生存率50%」という数字だった。
「もう何も考えられなかったです。どうせ死ぬんやったら治療せずに遊ばせてほしい、そう思ってました」
いきなり目の前に突きつけられた「死」。その現実は、あまりに残酷だった。
兄の健太もまた、診断結果を聞いて「弟を失ってしまうかもしれない」という恐怖に苛まれたという。こうして、大阪国際がんセンターでの、長く過酷な闘病生活が始まった。
◆でも、逃げなかった
がんは縦隔を含め、体内の5カ所に発見された。合計でおよそ20センチにも及ぶ腫瘍。 若く健康だった身体は、逆にがんの進行を早めていた。
治療はまず、がんを手術できる大きさにまで小さくする必要がある。そのための抗がん剤治療は想像を絶する苦しみだった。
「どれだけ耐えれば楽になるのか、先が見えない戦いでした」
希望も見えず、心は折れかける。
「もう全部やめて逃げ出したる」
そう思った日、外出許可をもらい、エレベーターで1階へと向かった。 逃げる。そう決めていた。だが——。
「これじゃあかん。逃げても意味がない。これまでの苦労、ラグビーで証明してきたものを全て否定することになる」
伸弥は踏みとどまり、再び戦う決意をした。
抗がん剤治療の効果を確認するため、毎朝腫瘍マーカーの数値をチェックする。 効果が出ていれば“生”、出ていなければ“死”。まるで命の審判を毎日受けているようだった。
「今日も生きていられる。ご飯が食べられる。その一日一日が、ありがたかった」
抗がん剤治療の合間には、病室でトレーニングも再開。
「どうせ体力は落ちる。それでも、少しでも抗ってやる。神様との勝負だなと思ってました。乗り越えられる者にしか試練は与えられない。ならばやってやろうと」
その姿を見て、兄・健太は言う。
「あんなに強い人間はいないと思います。病室でトレーニングしてるんですよ? 普通はできない」
家族の前でも弱音を吐かず、いつも通り明るく振る舞っていた。 その背中が、家族にも力を与えていた。
◆折れて、なお
長い闘病生活を乗り越え、伸弥は三菱重工相模原ダイナボアーズとプロ契約を結ぶ。 大学卒業後に入団するはずだったクラブ。契約が白紙になった後も、経過を気にかけてくれていた。
入団2年目、調子も良くなり、試合メンバー入りが見えてきた矢先だった。がんの再発が発覚する。
「一度経験しているからこそ、2回目は余計に辛かった」
それでも、今回は違った。「チームが待ってくれている」。その想いに支えられ、治療に前向きに取り組むことができた。
手術と抗がん剤治療を乗り越え、復帰に向けてリハビリに取り組んでいた。だが、ここでもまた絶望の淵に追いやられる——2度目の再発。
「この時は、もう無理だと思いました。死ぬんやと思いました」
「ラグビーどころじゃなかった。生きるか死ぬかの中で、競技のことなんて考えられなかった」
それでも、チームからは「待ってるよ」と言われた。ありがたい。それでも、正直、つらかった。
「治療のしんどさも、リハビリのしんどさも知ってる。もう辞めさせてくれって思いました。契約を切られた方が楽だと、そこまで思ってました」
それでも、やめなかったのは、ラグビーへの愛からだった。
「まだ何もなし得ていない。せめて、自分が納得するまでは」
そんな伸弥を見て、チームメイトの岩村昂太は語る。
「絶対に生きるんだという気力が、彼からは溢れていた。目の前のことに常に全力で、その姿がチームにポジティブな空気を与えてくれた」
(後編はこちら)