【ラグリパWest】教え始めは母校から㊤。内田啓介 [京都市立京都工学院高校/保健・体育教員/ラグビー部コーチ]
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ABSのコーチに見まがうか。
アディダスの真っ黒のウインドブレーカーを着込む。パンツの裾はストッキングの中にしまい込む。動きやすさ重視。デキる。
日焼けした飴色の肌、180センチほどの引き締まった体躯。プロのラグビー選手として生きてきた精悍さが漂う。
その内田啓介は33歳で指導の道に分け入った。誕生日は2月22日。新年度の4月1日から母校の京都工学院の保健・体育教員になった。内田の在学時の校名は伏見工だった。京都市立の高校である。
内田は坂口憲二に似ている感がある。鋭さはこの男優以上。その表情が緩む。
「まだ楽しさや苦しさを味わう前です」
的確に自分の状況を言語化できる。スマートさも持ち合わせている。
授業は週17時間。ラグビー部のコーチとしては、9学年先輩である監督の大島淳史を補佐する。その京都工学院には7時45分から半時間ほどの朝練習がある。
大島は内田の早朝の行動を見ている。
「我々より前に来て、アルバムで部員の名前と顔を一致させていました」
コーチとしては基本であり、きちっと名前で呼んでもらえる喜びを知っている。1年生31人の入部で選手の総数は106になった。
大島は現役時代、FLだった。伏見工から日体大に進み、京都市の保健・体育の教員になる。中学を経て、母校に赴任する。コーチを経験後、2018年末に監督に就任した。
コーチの細川明彦は内田を評する。
「コーチングは抜群。理論立てて説明できます。パナソニックが大きいと思います」
パナソニック、今は「埼玉WK」と短く称される。内田はこの青いジャージーの生え抜きとして11年を過ごした。
その間、トップリーグとそれに続くリーグワンで優勝は4回、準優勝は3回を果たした。SHとしての日本代表キャップは22。常にトップレベルで戦ってきた。
細川は社会科の教員でもある。内田の7学年先輩で、理論の早大で過ごした。現役時代はSO。その細川の言葉を裏付けるように内田は練習で声を飛ばす。
「ブレイクダウンをしっかり止める! そこからやから! そこから、かける!」
優先事項をしっかり示す。高校生たちに混乱の波が広がることはない。
内田の教員志望は中学時代に端を発する。
「稲田先生に出会ったのが大きいと思います」
稲田雅巳は保健・体育教員であり、ラグビー部の監督だった。京都の市立中学、陶化(=とうか、現・凌風学園)で教えていた。
稲田は大体大出身。現役時代はSOとしてU23日本代表にも選ばれた。前任の大原野(おおはらの)では大島を教えた。内田にとって大島は中高で兄弟子になる。
内田は中学で本格的にラグビーを続けるため、よき指導者を探していた。陶化には滋賀から越境する。競技を始めたのは小2。大津ラグビースクールだった。野球やサッカーは同級生の中では出遅れ気味だった。
稲田は熱心だった。その指導の肝は生活面からラグビーに至るまで基礎基本だった。
「あいさつ、返事、目を見て話す。ラグビーではパスを受ける前にハンズアップをしなさい、とかですね」
ベースの大切さを中学時代に学んだ。
内田をスクール時代のCTBから、SHにコンバートしたのも稲田だった。大島に伝える。
<パスをちゃんと教えたらめちゃくちゃうまくなった>
手先の器用さがあった。パスはSHの命である。内田の中学入学時の身長は150センチ。高校卒業まで30センチほど伸びた。
稲田は60歳定年を1年残し、この4月から同志社大の教授に転じた。教職課程の講義や教育実習などを担当する。それまでは京都市の教育委員会の部長だった。
内田が高校進学を伏見工に定めたのは鮮烈な思い出がある。
「小3の時、初めて冬の全国大会を見に行きました。その時、伏見工が優勝しました」
2000年度の80回大会。佐賀工を21-3で降す。同校3回目の頂点だった。主将としてチームをけん引したのは大島である。
伏見工のラグビー部がモデルになった映像も身近にあった。
「何回も見ました。格好よかった」
NHKのテレビ番組『プロジェクトX~挑戦者たち~』や映画の『スクール・ウォーズ HERO』である。
その理由もあった。4学年上の兄の洸平は伏見工に進む。3年時、WTBとして伏見工4回目の全国優勝に貢献した。85回大会(2005年度)の決勝は桐蔭学園に36-12だった。
兄は京産大から日本新薬を経て、医療系に転職。社内起業でソックスの「PEAK EAZY」(ピーク・イージー)を立ち上げる。
「医師が作ったソックスで薄さとグリップの力に秀でています」
内田は説明する。
伏見工に内田が入学したのは2007年。ラグビー部の監督は高崎利明だった。高崎は同校最初の全国優勝、60回大会(1980年度)のSHだった。HB団を組んだSOは平尾誠二。後年、その容姿、華麗なプレー、明晰な頭脳から「ミスターラグビー」と呼ばれた。
内田は高崎の長男、悠介と同級生になる。その時、指導者に必要な優しさを感じる。
「僕たちを息子のように見てくれました。もうひとりお父さんがいる感覚でした」
厳しさばかりでは人はついてこない。そのことを体験する。
高崎は63歳。市立高校の京都奏和の校長を退任。この4月から市教育委員会に勤務する。悠介は中大を経て中部電力に就職。ラグビー部の副務をつとめている。
(教え始めは母校から㊦に続く)