コラム 2024.09.09

【コラム】小林深緑郎さんのこと。

[ 森本優子 ]
【キーワード】
【コラム】小林深緑郎さんのこと。
ラグビージャーナリストの小林深緑郎さん、享年75。写真は2015年W杯前のインタビュー時(撮影:松本かおり)

 ラグビージャーナリストである小林深緑郎さんが9月1日、急逝した。

 享年75。ファンや選手、関係者、誰からも愛されたラグビー博士だった。
 ここに小林さんがラグビー界と関わるようになったいきさつをとどめておきたい。そのためにはラグマガ創刊時までさかのぼる必要がある。

 日本初のラグビー専門誌であるラグビーマガジンが産声を上げたのは1972年。当時ベースボール・マガジン社に勤務していた青学大ラグビー部出身の一木良文さんが創刊した。

 当時は季刊で、創刊2号から「国際ラグビーニュース」の連載が始まった。筆者は宮原萬寿(かずひさ)さん。周りからは親しみをこめて「まんじゅさん」と呼ばれた。

 宮原さんは東大ラグビー部OBで卒業後は大阪の商社に勤務。国際ラグビーに造詣が深く、休みに上京しては、英国大使館やオーストラリア大使館、南ア領事館に通っていた。各国大使館に届く現地の新聞から海外の情報を仕入れて、原稿にまとめていたのだ。

 宮原さんは1979年まで同連載を担当。関西協会の理事長や日本協会のレフリーソサエティ委員を務めるなど、ラグビー界に大きな貢献をされた。

 創刊から15年経った1987年、一木さんが第1回W杯に出かけた際、シドニーで宮原さんから紹介されたのが小林深緑郎さんだった。

 立教大を卒業して商社に勤務していた小林さんは、W杯を見に行くために会社を辞め、足が不自由になっていた宮原さんを介助しながら試合を観戦していた。2人はそのツアーで偶然出会い、親しくなったのだ。

 ラグマガ2023年7月号のトライラインにも「ラグビーマガジンが募集していた観戦ツアーに参加した」と書かれている。宮原さんは「一木君、すごい子がいるんだ」と小林さんを紹介。

 そこで一木さんは、小林さんからガリ版刷りの冊子を渡される。

「最初は単なるラグビー好きだと思ってたんだけど、ホテルに帰って開いてみたら、W杯に出る選手の情報が事細かに載っている。“これはただモノではない”と」

 それは当時、小林さんが自費で出版していた「トライライン」だった。

 私の記憶にある最初の小林さんは、W杯後、水道橋にあった会社に、宮原さんの車いすを押して現れた時だ。そこで編集部との繋がりが生まれ、1990年、村上晃一さんが編集長になったのをきっかけにラグマガで原稿を書くように。
 そして1991年2月号から始まったのが、今年の9月号まで続いた「トライライン」だった。連載回数406。ラグマガ史上最長連載だ。

 小林さんは飯田橋駅近くにある英国の公的機関「ブリティッシュ・カウンシル」に定期的に入る現地の新聞をコピーしがてら、ちょくちょく隣の水道橋駅にある編集部を訪れていた。

 まだインターネットなどなく、海外の情報入手は今よりずっと限られていた時代。しょっちゅう通うものだから、顔を覚えられたと言っていた。
 編集部に現れる時も、ぶあついコピーの束を抱えていた。それは、師である宮原さんに倣った習慣だった。

 小林さんはラグマガ連載時から宮原さんを私淑。宮原さんもW杯で知り合ったことをきっかけに、自分の後継者として、資料を渡したり情報の集め方を伝授していた。

 かつてトライラインの小林さんの経歴に「画家」とあったのをご存じだろうか。新潟の誰でも知っている有名な日本酒の題字を書いた方が師匠で、その頃はときどき一緒にスケッチ旅行にも出かけていた。
 そのうち「トライラインにも絵を描きませんか」ということで、1996年7月号から2000年4月号まで、ご自身でイラストも描かれていた。

 5か国対抗(当時)のマッチプログラムや海外の雑誌や書籍も頻繁に購入していた。今のファンには「スティーブ小林」の名でおなじみだが、書籍を注文していたロンドンの本屋さんに「深緑郎」という名は伝えづらく、自らスティーブと名乗るようになった。
 ちなみに名前は7月生まれにちなんだもの。5月の新緑より、緑が深い季節だからだ。

 1991年、第2回W杯でロンドンを訪れた際、その本屋さんを訪ねると「お前がスティーブか!」と歓待されたという。存在は当時からすでに海を越えて知られていた。

 葬儀の席で、4歳上のお兄さんに、バックグラウンドを伺った。

 お父さんはカナダ生まれ。9歳で日本に来て、弁護士をされていた。お父さんは野球、卓球、乗馬とスポーツ万能。「日本に野球を広めたのは正岡子規ではなく、この俺だ」と冗談めかして言っていたという。

 スポーツ観戦も大好きで、小さい頃から父と兄弟はラグビー、サッカー、水泳などを見に行っていた。「父はなんでもこなせましたが、我々兄弟は見る方が好きでした」。
 小林さんの高校時代は陸上部。「走るのが一番簡単だったからでしょう」とお兄さん。ラグビーにとどまらず、スポーツ全般の知識が豊富だったのは、幼少期から様々なスポーツになじんできた背景があった。

 1990年代、小林さんはラグマガでトライライン以外も連載を持っていた。1993年6月号から「ラグビー・エンサイクロペディア」というタイトルで、世界のラグビー事項を五十音順に網羅した連載が始まった。第1回の最初の項目は「アイルランド」だ。

 連載は小林さんと、テレビ神奈川に勤めていたスポーツ史研究家の秋山陽一さん(故人)を中心に、メディアにいるラグビー好きの面々が、それぞれ得意な分野を執筆する形で進められた。
 打ち合わせは月に1回、当時原宿にあった「ビューリーズ・カフェ」で行われた。

 ビューリーズは今もダブリンに店を構えるアイリッシュ・カフェ。日本の店はとうの昔になくなってしまったが、表参道と明治通りの交差点のビルにあった。そこでギネスやアイルランド料理をつまみに談論風発。ラグマガからも毎回、編集者が同行していた。

 ある時、打ち合わせの途中で小林さんの姿が見えなくなった。しばらく経っても戻ってこない。どうしたのかと店の外に出ると、階段の踊り場で小さなラジオを耳にあて、懸命に海外のニュースを聞いていた。

 その姿に何とも言えず、胸が熱くなった。SNSはもちろん、携帯電話もインターネットも普及していなかった時代。そこまでして情報を集めていたのだ。私の脳裏に鮮やかに残る小林さんは、夜の原宿の喧騒の中、懸命にラジオに耳を傾けていた姿だ。

 次第に小林さんの名はラグビー界に拡がり、ラグビー関係者の信頼を得ていった。その情報量の幅広さから、日本代表・宿沢広朗監督に頼まれ、ポルトガルへ情報収集に行ったこともある。

 あれから時は経ち、情報は誰でも簡単に集められる時代になった。ずいぶん前、小林さんに「便利な時代になりましたね」と言ったところ、怪しい情報も増えたと言われた。
「どうやって見極めるのですか」とたずねると「なんとな~くわかるんだよ。観てるとこれは怪しい」と笑っていた。

 それは、何十年もの間に蓄積された知識と経験に裏付けされた人間ならではの勘なのだろう。小林さんの連載で、編集部の見逃しによる誤字脱字はあっても、事実誤認による訂正記事を載せた記憶はない。
 発信する情報は絶対に確かなものを。それが小林さんの信念であり、誰からも信頼される所以だった。

 自分から知識をひけらかすことはないが、ひとたびたずねると、お願いした以上のものを返してくれる。無私の人でもあった。

 酔うと「日本で最初のストリーキングをやったのは僕だ」と自慢していた。正式に認定されているよりも早く、池袋で実践したのだという。こればかりは事実確認のしようがない。

 ワインも好きだった小林さん。NZを訪れてからは、NZ産のピノノワールが大のお気に入りに。編集部からの還暦祝いもピノノワールだった。
 これから、あの少し透明がかったやわらかな赤い色のグラスを見るたび、小林さんがラグビー仲間と過ごした、かけがえのない日々を思い出すのだろう。

 もう会えないと思うのは嫌だから、これまで通り、都内のご自宅で粛々と情報収集に励んでいると思うことにする。
 小林さん。私たちに世界のラグビーの楽しさと醍醐味を教えてくださって、ありがとうございました。

 スティーブ小林の素晴らしきラグビー人生に、乾杯!

 お兄さんからうかがった大切なエピソードを書き忘れるところでした。

「今回のことで知り合いに連絡するために弟宛の年賀状を見たのですが、大半が女性からでした」

 小林さん、モテキャラでもありました。


参考文献▶日本ラグビー協会機関誌54巻5号。宮原萬寿さんの生涯について秋山さんが「日本ラグビー伝」に執筆。日本協会デジタルアーカイブで閲覧可能。

1988年4月号の「トライライン」で小林さんが描いたイラスト。同年2月におこなわれたプレミアシップのカップ戦で、試合中に選手の耳が嚙み切られた”事件”を扱った
【筆者プロフィール】森本優子( もりもと・ゆうこ )
岐阜県生まれ。1983年、ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部に配属され38年間勤務。2021年に退社しフリーランスに。現在トヨタヴェルブリッツチームライター。

PICK UP