コラム 2014.12.29

若狭東が花園でとびきりの笑顔 ラグビーどころ秋田県の代表相手に大健闘

若狭東が花園でとびきりの笑顔 ラグビーどころ秋田県の代表相手に大健闘

 12月28日は、東大阪市の近鉄花園ラグビー場で全国高等学校ラグビーフットボール大会2日目が行われた。初出場同士の対決では高岡第一(富山)が近大和歌山(和歌山)を下して初勝利。そのほか関西ラグビー協会所属県勢の中で印象的だったのは、若狭東(福井)の戦いぶりだった。福井県には中学のラグビー部が皆無で、全員が高校入学後にラグビーを始めている。県の予選参加校数もわずかに3チーム。他県に比べて強化環境は恵まれているとは言えない。そんなチームが、全国有数のラグビーどころである秋田県代表(秋田中央)に大健闘を見せたのだ。

 試合は秋田中央が結束の強い見事なドライビングモール、CTB土橋永卓(どばし・えいたく)らの力強い突進で着々と点差を広げたが、若狭東もデコイ(囮)ランナーを複数走り込ませながら、スピーディーなアタックを披露。脇田峻寛(わきた・たかひろ)、田邉冬馬(たなべ・とうま)の両FLを軸に思いきりよく縦に走り込んで何度も防御ラインを破った。27-5の秋田中央リードで迎えた後半序盤は若狭東が主導権を握って3トライを畳み掛け、一時は32-24と8点差にまで迫った。最後は突き放されたが、2年前に秋田工業に完封負けを喫したことを思えば、秋田県勢からの4トライは大きな前進だった。

 なにより観戦者の心をつかんだのは、PR白井拓(しらい・たく)が雄叫びをあげたトライに代表される、得点後のとびきりの笑顔だろう。ラグビーが楽しくて仕方がないといった表情なのだ。トライをした選手が「楽しい!」と叫びながら自陣へ向かって戻ることもあったという。試合後の円陣では、朽木雅文(くつき・まさふみ)監督(42)のこんな声が聞こえた。「お前たちは十分に戦った。勝たせることができないのは指導者の責任だと思う」。選手たちが力を出しきってくれたからこそ出てくる言葉だろう。

 朽木監督といえば、トヨタ自動車ラグビー部の監督を務めた2人の兄(朽木英次、泰文)を持つ、ラグビー界きっての有名兄弟の末弟である。自身も若狭東で花園に出場し、日本体育大学卒業後、若狭東のライバルチームである若狭高校に赴任。19年間にわたって同校ラグビー部監督を務め、8回の花園出場を果たしている。そして、今春の人事異動で母校に戻ってきた。平成30年には福井で国体が開催される予定で若狭東は強化拠点校に指定されている。その責務も背負っての異動である。

 前任校と戦うという現実が「最初は複雑だった」と言うが、次第に「母校を指導できる喜び」に変わった。「自分もあの緑のジャージを着ていましたから。一年目からいい選手に恵まれて幸せです」。敗れはしたものの、楽しげに花園を駆けてくれた選手たちに感謝した。「いいアタックがいっぱい見られましたね。選手にも私にも自信になります。速いテンポでスペースをついていくラグビーを、これからも続けていきたいです」

 少し残念なのは、大学でラグビーを続ける選手が一人もいないことだ。つまり彼らは3年間でラグビーの競技生活を終えるのである。この日の感激でラグビーを続ける選手が現れることを期待したいが、きっと、いつまでもラグビーを好きでいてくれるだろう。それでいいのかもしれない。

(文:村上晃一)

wakasahigashi

若狭東高校の朽木雅文監督

【筆者プロフィール】
村上晃一(むらかみ・こういち) ラグビージャーナリスト。京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。現役時代のポジションは、CTB/FB。86年度西日本学生代表として東西対抗に出場。87年 4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーラン スの編集者、記者として活動。ラグビーマガジン、ナンバー(文藝春秋)などにラグビーについて寄稿。J SPORTSのラグビー解説も98年より継続中。99年、03年、07年、11年のワールドカップでは現地よりコメンテーターを務めた。著書に、「ラグ ビー愛好日記トークライブ集」(ベースボール・マガジン社)3巻、「仲間を信じて」(岩波ジュニア新書)などがある。BS朝日ラグビーウィークリーにもコ メンテーターとして出演中。

(上の写真:秋田中央に最後まで食い下がった若狭東(緑)の選手たち/撮影:松本かおり)

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