【ラグリパWest】まだ、走る。カーン・ヘスケス [ルリーロ福岡/WTB]
2015年、国民はこの人に熱狂した。
カーン・ヘスケスは「ブライトンの奇跡」を仕上げた。
試合終了直前、相手インゴールに飛び込んだ。34-32。ラグビーW杯で日本は優勝候補の南アフリカを降した。この白星を含め、8回目の大会で初めて3勝を挙げた。
あれから9年が経った。ヘスケスは変わらず日本にいる。そして、人を引きつける。明治維新の功労者のひとり、西郷隆盛を細く、アスリートにしたらこんな感じか。
38歳の今でも現役を続けている。
「私は今もラグビーを楽しんでいます」
ルリーロ福岡(略称:ルリーロ)にいる。
その加入は田代宙士(ひろし)の誘いだ。
「新しいチームだから、経験を伝えてほしい」
創部2年目のルリーロは先月、リーグワンのディビジョン3(三部)への参入が正式決定した。
ルリーロは昨秋、トップキュウシュウA で連続優勝したあと、関東、関西との3地域の順位決定戦に出る。ヘスケスはWTB。178センチ、103キロの体を利した強い走りで全3試合に出場する。
島津製作所には59-12、ヤクルトには13-14、大阪府警には12-37だった。順位は4位だが、大阪府警にリーグワンの参入意志がないこともあって、ルリーロがセコムとヤクルトとともに三部参入となった。
「ベリー・ハッピー。チームは目覚ましい発展を遂げています」
その本拠地は福岡県南東部のうきは市である。練習は浮羽究真館高校の土のグラウンドだ。慣れ親しんだ芝生ではない。
「足をすりむいたり、肉離れをしたりします。でも、本来ラグビーはそんなもの」
皆がその環境でやっているならともにそこで汗を流す。特別意識はない。
この高校のラグビー部監督、吉瀬(きちぜ)晋太郎は同時にルリーロ立ち上げの軸でもある。ヘスケスの献身を目の当たりにする。
「紅白戦に出たあと、地面に仰向けに倒れて、けいれんを起こしていました」
補水液が口から流し込まれた。
この紅白戦は公式戦の相手が棄権したことによって急きょ組まれた。勝負がかからず、ファンサービスにも関わらず、ヘスケスは出し尽くした。それがこの人の真骨頂だ。
ルリーロの選手たちはプロではない。生活費を稼ぐための仕事をもっている。ヘスケスとて例外ではない。今は小中学生にラグビーを教えている。「O.U.P.スポーツアカデミー」のコーチである。
アカデミーを主催するのは2歳上の築城昌拓(ついき・まさひろ)。ヘスケスはサニックス時代、コカ・コーラの一員だった築城と対戦した。今は両チームとも消滅した。その受け皿としてルリーロの存在がある。
ヘスケスのコーチングは週3回。放課後の5時間ほどを使う。ただ、忙しくなれば、その週がフルで埋まることもある。自身の練習はその合間を縫って行う。
アカデミーに通う子供たちより、少し早い5歳からヘスケスは競技を始めた。母国、ニュージーランドの代表チームはオールブラックス。ラグビーは国技だった。クラブのネイピアテックオールドボーイズからネイピアボーズ高に進み、オタゴ大に入学した。
2006年にはNPC(ニュージーランド国内選手権)のオタゴ代表に選ばれる。ただ、その上部組織になるスーパーラグビーのハイランダーズから声はかからなかった。ランは抜群もキックが不得手だったと言われている。
出場機会を求めて2010年に来日。以来、12年後の休部まで一貫してサニックスに籍を置いた。義理堅い。日本代表の初キャップは2014年11月15日のルーマニア戦。ブカレストでの試合は18-13で勝利した。翌年のW杯を含めて得たキャップは16になる。
日本代表に導いてくれたエディー・ジョーンズは昨年、再びヘッドコーチの座についた。ヘスケスはその成功を予想する。
「日本人は従順で規律があります。エディーの言うことを受け入れ、100パーセントの信頼を寄せます。これまで指導したイングランドやオーストラリアはよくも悪くも自分の意見を持っています。個性が強いのです」
日本を知るヘスケス。来日して15年目に入った。この国で2人の息子を得た。長男のコーエンは小6。かしいヤングラガーズに所属する。次男のコジローは5歳だ。
コジローの名は宮本武蔵に勝てなかった剣豪の佐々木小次郎から取った。
「私はナンバー2が好きです。チャレンジする気持ちを持ち続けるからです」
この名は第二子につけることも知っている。
2人の母はカーラ・ホぺパ。このパートナーはヘスケスと同じ年だ。カーラは今年からスーパーラグビーのチーフスで、「マナワ」と呼ばれる女子部のコーチになった。7人制と15人制の両方でニュージーランド代表だった経験が評価のひとつになる。
今、家族は両国に分かれて暮らす。ヘスケスとコーエンは日本、カーラとコジローはニュージーランドである。
「料理も洗濯も掃除も苦になりません」
肉と野菜がふんだんに入ったお皿の写真がある。ニュージーランドでは10代から親元を離れるのが常であり、ヘスケスも大学入学と同時に北島から南島にひとりで渡った。
この2国をまたがる生活がいつまで続くかわからないが、選手は続ける予定だ。
「新しいシーズンもルリーロでプレーを続けるつもりです。チームが上昇している中におれるのは幸せなことですから」
三部の開幕は例年通りなら今年12月。ヘスケスの中に、「引退」の2文字は浮かんで来ない。若いチーム、そして選手たちのためにもグラウンドに立ち続ける。