コラム 2026.07.02

【村上晃一の楕円球ダイアリー #11】追悼・山口良治先生。夢を語れる大人でありたい

[ 村上晃一 ]
【村上晃一の楕円球ダイアリー #11】追悼・山口良治先生。夢を語れる大人でありたい
2006年1月7日、総監督として4度目の花園優勝を果たした後、集合写真に収める(撮影:松村真行)

 京都市立伏見工業高校(現京都工学院高)ラグビー部の監督、総監督として長らくチームを率いた山口良治さんが2026年5月29日、脳梗塞のため亡くなった。83歳だった。

 1974年、伏見工業高校に保健体育科の教諭として赴任し、翌年にはラグビー部の監督に就任した。目標を失っていたラグビー部員を奮い立たせ、1981年の第60回全国高校大会で初優勝を飾った。

 熱い涙を流し、生徒に夢を語る姿が感動を呼んだ。そのストーリーはテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」のモデルとなり、日本全国にラグビーブームを巻き起こした。

 ラグビーマガジン8月号(6月25日発売)に追悼文を書かせていただいた。

 ここでは個人的な思い出を書きたい。僕をラグビーの世界に導いてくれたのは父だが、ラグビーを大好きにさせてくれたのは山口先生だった。

 父は高校時代にラグビー部員だったので、幼い頃から京都の西京極、大阪の花園ラグビー場に連れていってくれた。小学校5年生の時、僕は京都ラグビースクールに入団した。そこに指導員としていたのが、山口良治先生だった。

 かっこよくて、優しい先生だった。人見知りだった僕は、毎週ラグビースクールに通いながらも親しい友達が一人もできなかった。

 6年生の時、山口先生は僕の学年の担当になった。当時は、伏見工業高校に赴任されたばかりで、日々、やんちゃな高校生たちと格闘していた頃だ。

 ラグビースクールの子供達と接するのは先生にとって癒しだったのかもしれない。いつも笑顔で優しくラグビーを教えてくれた。試合形式の練習に先生が入ると、いつのまにか先生がボールを奪って走っていて、それをみんなで追いかけると、パスをくれた。

 練習後、ボールをカゴに入れようと歩いていたら、山口先生が「貸してみろ」と言う。ボールを渡すと、カゴに向かってグラバーキックを蹴った。地面を勢いよく転がったボールはカゴの前で跳ね上がって中に入った。

 ポカンとしていたら、同じことを何度もやってくれた。タイミングよくボールが跳ね上がるのが不思議だった。この先生、すごい。

 プレースキックを披露してくれたこともある。僕がボールを置く砂を盛ったこともあった(当時はキックティーはない)。そこにボールを置くと、先生は難しい角度から何度もゴールを成功させた。

 ワクワクした。ラグビーがどんどん好きになった。

 先生はラグビーで一緒に遊んでくれた。そして、一人ひとり、名前を呼んでくれた。父と2人で帰ろうとする僕にも声をかけてくれて、帰りに道には「村上、また来週な!」と。小さな声で返事するのが精いっぱいだったが、それが嬉しかった。

 ある時の試合形式の練習で、学年を4チームに分けるとき、山口先生は僕を一つのチームのキャプテンに指名した。ほとんどしゃべらない僕が指名されて、他の6年生はポカンとしていたが、僕は嬉しかった。認められた気がした。

 先生に教わったことで忘れられない言葉がある。

「ボールは赤ちゃんだから、大事にするんだぞ」

 パスをキャッチするときは、手を差し出して迎えに行く。ハイパントをキャッチするときも、手を出し、柔らかくキャッチする。しっかり抱えて走る。ぜったいに落とさない。ボールは赤ちゃんなんだから。そう思ってプレーするとボールを落とさなくなった。

 高校、大学でもラグビーを続け、体育の教員になってラグビー部の監督になろうと思ったのは山口先生の影響だった。大学でスポーツジャーナリズムに出会ったことで方向は変わったが、ラグビーが好きな気持ちはずっと続いている。

 社会人になって、取材する立場になったとき、山口先生の講演を聞きに行ったことがある。控室に挨拶に行って、京都ラグビースクールにいたことを話すと、「そうなのか」と喜んでくれた。

 そして、両手で顔の前に円を作り、望遠鏡を見るように僕の顔をじっと見つめた。その瞬間、胸の奥から涙がこみ上げた。先生がヘッドキャップを被った僕の顔を思い出そうとしたからだ。

「覚えてるよ。なんで伏見に来なかったんだ」

 笑顔を返すのが精いっぱいだった。

 たくさんの人に思い出を作った人生だった。伏見工業高校の教え子には強烈な思い出があるだろうし、一度だけ会った人には、あの力強い握手は忘れられないだろう。

 講演や著書、テレビなどで山口良治先生に影響を受けた人は、数えきれないほどいる。これほどまでに人に影響を与えた方を僕は他に知らない。

 一人ひとりと真正面から向き合い、関わっていく無尽蔵のエネルギーを持っていた。それは計算されたものではなく、人に対する愛情から発しているからこそ、多くの人の心に響いたのだと思う。山口先生が亡くなられたとき、感謝の気持ちで黙とうをささげた人は多かっただろう。

 僕は山口先生にサインをもらったことがない、と思っていた。ところが、1冊、サイン入りの先生の著書を持っていた。「17歳を語る 山口良治」(青少年交流振興協会編)である。

 添えてあった一言は、「夢を語れる大人でありたい」だった。2002年発行なので、先生は59歳。その言葉を読み返しながら、僕も、いつまでも夢を語れる大人でありたいと、思いを新たにした。

【筆者プロフィール】村上晃一( むらかみ・こういち )

ラグビージャーナリスト。京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。現役時代のポジションは、CTB/FB。86年度、西日本学生代表として東西対抗に出場。87年4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーランスの編集者、記者として活動。

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