コラム 2026.05.29

【ラグリパWest】先生のおかげ。西川祐 [京都産業大学ラグビー部OB]

[ 鎮 勝也 ]
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【ラグリパWest】先生のおかげ。西川祐 [京都産業大学ラグビー部OB]
西川祐さんは三重県のU15ラグビースクール選抜の監督して、県内のジュニア世代の育成に貢献した。西川さんは三重・志摩高から京産大に進んだラグビーマンでもある。京産大時代は現監督の廣瀬佳司さんと同期でCTBとして公式戦に出場している。写真は通勤に利用する近鉄桑名駅の改札口にて

 西川祐(ゆう)には深い感謝がある。
「先生がいなければ、今の自分はありません」
 先生とは大西健のことである。

 大西は京都産業大学のラグビー部監督だった。ここでの4年が西川を形作った。略称「京産大」に入学したのは34年前である。

 集合は入学式前の3月10日だった。
「びっくりしました」
 新入生にも初日から容赦がない。坂道ダッシュや階段昇降、3000メートルも走った。

 いきなり猛練習の洗礼を受ける。5月に入れば、「くも」と呼ばれた雲ケ畑までの往復20キロ走があった。大西が折り返し地点で待ち受ける。ズルはできなかった。

 練習で疲弊した上に寮生活にもなじめない。
「話題についていけませんでした」
 同期は12人。天理など強豪校が多かった。
「私は三重県から初のスポーツ推薦でした」
 母校は県立の志摩である。孤独だった。

 夏のオフ、実家に帰った。集合日に行かなかった。そして、大西がやって来る。
「ゆう、戻るでー」
 西川の実家は志摩半島にあった。近鉄の賢島から大西は渡船で真珠の海を突っ切る。

 こんな田舎まで迎えに来てくれた。西川は心を打たれた。164センチ、70キロほどの小さなCTBだったが、練習に打ち込む。ベンチプレスは155キロを差し上げた。驚くべき数字が熱を伝える。その姿は大西の信条である<ひたむきさ>に重なった。

 最終学年では日本代表の間で公式戦に出る。SOは同期主将の廣瀬佳司、外側のCTBは2学年下の大畑大介。廣瀬は現監督でもある。トヨタ自動車(現トヨタV)に入り、キャップ40を得る。大畑は神戸製鋼(現・神戸S)でキャップを58に積み増した。

 その1995年度は関西2位。大学選手権は32回大会。初戦敗退だった。4強入りする日大に15-21と及ばなかった。
「日大には元吉君がいました」
 自慢のスクラムがPR元吉和中に止められる。元吉はサントリー(現・東京SG)で日本代表キャップ1を手にしている。

 その前の2年、京産大は連続して4強入りする。30回大会は法大に19-28。31回大会は明大に15-33だった。京産大にとってこの4強入りは4、5回目。大西が強豪化したチームはその数を12に積み上げている。

 西川は53歳になった。眼鏡を通した丸い両眼は左右に落ちる。口元も柔らかい。男前だ。大西は76歳になった。今は監督から相談役に移っている。

 そもそも京産大進学も大西ありきだった。OBの話を聞き、高3の夏に志摩高に来る。
「預からせてもらう」
 そう言い残して京都に帰っていった。

 西川は教員志望だったが、監督の岡行房と相談し、進路を変える。当時、この志摩高は県を代表するチームだった。創部は学校創立と同じ1954年(昭和29)。冬の全国大会は県決勝において27年連続進出の記録を持つ。

 ただ、本大会出場は9回。当時は隣県の岐阜と代表校を決めていた。「三岐」(さんぎ)と呼ばれた。関商工には勝ちがたかった。西川は一県一校制になってからの70回大会(1990年度)に出場した。CTBで出場も1回戦で敗れる。佐賀工に0-36だった。

 その志摩高のラグビー部は7年前に活動を終えた。学校自体も2年後に生徒募集を停止し、2030年に閉校が予定されている。西川にはこれから<語り部>の役割もある。

 京産大卒業後は父の長和のすすめもあり、水回りの仕事についた。父は志摩市の助役まで上がる。西川は今、昱耕機で働いている。「あきら」と読む。日立の特約店で、西川は四日市にある三重営業所の所長代理だ。

 仕事をしながら注力したのは地元のジュニア世代の育成だ。長男の敢太と時を同じくして四日市ジュニアラグビークラブに入る。指導員になった。20年ほど前である。

 2009年からは三重県のラグビースクール選抜の監督についた。10年目の2018年には全国ジュニア・ラグビー大会に初出場を果たす。大会は初戦で群馬に7-14で敗れた。

 西川は極力、遠征を組んだ。
「僕が京産大に入った時のような経験をしてほしくない、と思いました」
 色々なチームと交流して、委縮をなくす。高校時代、県外に出るのは長野・菅平での夏合宿のみだった。

 伊勢自動車道が全線開通するのは西川の大学2年の時である。当時と比べれば道路網は格段に整備された。どのチームとも意識せずに戦えるようになったのが、初の全国大会出場あたりだった。10年かかった。

 主将だった三輪拓翔(たくと)は高校から県外に出る。広島の尾道から、同志社大に進んだ。この4月、中国電力に入社する。会社が持つレッドレグリオンズでPRとして競技を続けている。

 チームの成長を感じ、西川は退任した。
「3年前に監督を終えました」
 次は子や甥に目が向かう。長男・勘太は西陵から同じ京産大に進んでくれた。4年時には関西制覇。大学選手権では4強入りする。京産大にとっては9回目だった。

 59回大会(2022年度)は33-34と早大に敗れる。敢太は土永旭(現・横浜E)の控えSHだった。親子2代で紺赤のジャージーに袖を通す。今、敢太は中部電力で社業とラグビーにまい進している。

 甥は大輔。兄の息子はBR東京のWTBだ。リーグワンにおいて、初のプレーオフに進出した。5月23日、大輔が先発した東京SG戦は35-40で敗れた。4強戦は上京して応援する予定だっただけに残念だった。

 西川は今、三重クラブなどでアドバイザー的な立場にいる。京産大のラグビー部OB会では東海支部の支部長だ。依然、頼りにされている。出発点に導いたのは大西だった。出会いや努力の大切さを教えてもらった。そして、その恩義を忘れなかった。結果、果実を得る。他者への教訓に満ちた生きざまである。

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