【ラグリパWest】香川のエディー、走り切る。宮西一樹 [坂出第一高校/ラグビー部/部長]
宮田貴司は言った。
「部長は香川のエディーと呼ばれています」
確かにエディー・ジョーンズに似ている。
日本代表のヘッドコーチ(監督)より、個人的には男前だと思う。目鼻立ちがくっきり。リーチ マイケルが感動して、自撮りを一緒に申し入れた逸話が残る。
宮田は坂出第一のラグビー部監督だ。愛称「サカイチ」は香川県の坂出市にある。部長の宮西一樹は宮田を支え、事務職員として勤務してきた。その高校を3月末で去る。
宮西は3月6日で61歳になった。還暦の定年から1年の再任用を受けていた。
「そこにしがみつく人はいっぱいいます。でも、それだと若い子は伸びません」
これから超ベテランとしていい目が見られる。にもかかわらず、後進に道を譲る。
ラグビー経験者らしく、自己犠牲の精神があふれる。新卒で母校でもある坂出第一につとめて39年が経った。高校の3年間を含めると実に42年の長きに渡る。
学校には後任をお願いしてきた。
「一向に来ませんでした」
学校はさぼっていたわけではない。後釜を選べば、宮西の退職は既定路線になる。その達人ぶりは余人をもって代えがたかった。
坂出第一でしてきた仕事を説明する。
「運営に関わるあらゆることですね」
施設の修理は業者を見つけ、交渉して、直してもらう。補助金の申請は仕事の軸になる。それはラグビーなど部活もうるおす。
「先生方の仕事を減らす事務もします」
教員にはメインの授業に没頭してもらう。
その宮西がラグビーを認識したのは中3の冬だった。テレビで全国大会決勝を見た。
「劇的な勝ち方で、興味を持ちました」
59回大会(1979年度)の決勝は、目黒(現・目黒学院)が久我山に終了間際のトライで、16-14と逆転優勝する。
そして、3か月後、坂出第一に入学する。
「たまたまラグビー部がありました」
知っていた訳ではない。創部は1976年(昭和51)。できて5年目だった。この3月には創部50周年の祝賀パーティーを開いた。
現役時代は167センチ、65キロ。高校ではFLを中心にFWをやった。全国大会には縁がなく、広島の私立、徳山大(現・周南公立大)に進む。坂出工の監督だった坂本英明が学校の垣根を越えて動いてくれた。
徳山大の創部は開学と同じ1971年。当時は中四国の雄だった。これまで、地区対抗出場は14回、優勝は2回ある。宮西の代は3回出場した。地区対抗は大学選手権の下に位置するセカンドの全国大会である。
強豪校出身ではなく、SHに移ったこともあり、大学では挫折しそうになる。
「新田の同期に礼儀作法を教わりました。県工の同期のように頑張れませんでした」
県工は広島工。猛練習で知られた。その時分、今も趣味にしている映画に助けられた。観賞したのは『道』(La Strada)だった。
道は1954年公開のイタリア映画である。大道芸人が少女と旅をするが、少女は自分を役に立たない人間と思い込む。
「ピエロが出てきて、石にだって役に立つことがある、と話すんです」
その言葉を自分に投影した。映画は教訓的だった。宮西は今、唯一無二になっている。
大学で4年間、ラグビーをまっとうし、指導にも興味を持つ。教員免許は持っていなかった。卒業する3月、母校から職員での受け入れ通知が来る。大学ラグビー部の部長らが就職内定先に断りを入れてくれた。
「大変だったと思います」
今なら穴を空けた無茶さがわかる。その申し訳なさを奮闘に変えるしかなかった。
母校への帰還は1987年4月。ラグビー部ではコーチにつく。監督は教員の役職だった。
「部長になったのは18年ほど前ですかね」
その頃、学校側が強化を望むクラブを募った。宮西は手を挙げる。監督として招いたのは日本航空石川でコーチをしていた宮田だった。地元の高松北の卒業生だった。
数学教員も兼ねる宮田の監督就任は2010年。この<みやみやコンビ>でチームにおける全6回の冬の全国大会出場を果たした。戦績は1回戦敗退。この年末年始の105回大会は東海大仰星に0-137で敗れた。
その坂出第一の創立は1907年(明治40)。坂出和洋裁縫女学校として始まり、1974年、現校名になる。翌年、共学化。普通と食物の2科制で、生徒数は430人ほど。2クラスの食物科は調理師免許を得られ、人気だ。
宮西は説明する。
「以前は普通科を落ちた子が食物科に来ましたが、それがなくなりました」
今は単願で来る。この科で191センチの大型LO、中村隼人は調理師免許を取得した。生涯、食いっぱぐれはない。4月には競技推薦で関西Aリーグの摂南大に入学する。
宮西は坂出第一のみならず、香川県のラグビーの普及・発展に尽くしている。
「今は事務局長をしています」
県協会の事務方を仕切る。レフリーとしてもB級を持ち、県トップだった時期もある。
24年前の高知国体ではレフリーとして参加して、ラックに巻き込まれた。
「邪魔、と言われ、はって出ました」
その成年の試合は常陸宮殿下がご観戦されていた。御前試合ということもあって熱心さが普段より出て、ポイントに近づき過ぎた。結果、人を和ますことになる。
そのラグビーのよさを宮西は語る。
「痛い思いをするから、すぐ仲間になれる。相手の気持ちがわかるんでしょうね」
退職後は中学ラグビーのNPO法人の立ち上げを考えている。2年後、高松市が中学の部活を外部委託する際の受け皿になりたい。
宮西はここまでの人生を振り返る。
「みんな、ぼくのことを言葉で評価してくれる。よかったな、と思います」
宮田は尋ねる。
「いつ、戻って来てくれるんですか?」
それも最高のほめ言葉のひとつである。




