華やかな終わりはいらない。安江祥光[前・三菱重工相模原ダイナボアーズ/HO]
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まさかこんなに長く過ごすとは思っていなかった。
安江祥光、40歳。
9シーズン在籍した三菱重工相模原ダイナボアーズを退団した。
「もう今年いっぱいで」
グレン・ディレーニーHCからそう告げられたのは、プレシーズンでの全体練習が始まった8月頃だった。
どうしてシーズン前に言われたかはわからない。
ただ、最後のシーズンで振る舞うべき自分の役割は理解したつもりだ。
「あえてこの時期に伝えたということは、それなりのメッセージがあるのだろうと。僕の持っているスキルを伝えて、いかに早く若手を成長させられるか。それが課された命題だと受け取りました」
現に愛称・グラッグスは、プレシーズンの練習試合で安江にゲームキャプテンを打診していた。
「断りましたが、『姿勢で示せ』ということだったのだと思います」
だから仲間の誰にも退団することは言わなかった。
それが、最年長の矜持である。
近年はプレシーズンマッチに出る機会は限定的だったから、今季は後輩たちから「どうして出るんですか」とよく聞かれた。
その時は決まって、「一選手としていつでも試合に出られる準備をしておくのは当然だろ」と返していた。
グラックスの口から選手たちに伝えられたのは、5月3日のホストゲーム最終戦(東芝ブレイブルーブ東京戦)の前だった。
「ヤスにとってホームでの最後の試合になる」
このタイミングは、安江にとってもサプライズだった。「ここで言うんだ、と思いました」と笑うも、仲間の驚く表情を見ると達成感を感じられた。
「みんなからは『シーズン前に言われてよく腐らずにいられましたね』と言われますが、辞めるからといってそれを態度に出すのはチームにとってマイナスでしかありません。本当に辞めるんですか? とも聞かれ、しめしめと思いました。僕のミッションはコンプリートだなと」
後輩たちは労ってくれた。プレゼントの中身を問えば「アスリートなのでなんといえばいいか…」とごまかすも、大好きなお酒かと聞けば「一律でそれでした」と表情を崩した。
「本当に良い仲間――先輩、後輩、同期――に恵まれました。ダイナメイト、ウリボアーズ(ファンの愛称)ら下にいたときからどの地方でも熱い応援をしてくれました。感謝しかないです。三菱さんにも本当に感謝しています。最後のチャレンジで来たつもりが、まさか9年やるとは思っていなかったので」
相模原に来たのは2016年。当時の所属はまだトップイーストだった。
あれから人も環境も大きく変わった。
「トップイースト時代はここ(ホームグラウンド)で公式戦をしていたので、雨の日に試合をしたら週明けは田んぼみたいにぐちょぐちょでした。いまのように素晴らしい環境になって、それを選手たちが感謝しているのか、自分から(上手くなりたい、強くなりたいと)求める人間がどんどん増えた。着実に進化を遂げていると感じます」
去るとわかっていたからか、今季は練習後に何気なくベンチに座り、グラウンドを眺める時間も多くなった。
個人練習に励む選手の多さやスクラムのアドバイスを求めにくる若手を見るにつけ、チームの成長を感じられた。
「あらためて、自分たちの好きなラグビーを毎日グラウンドで仲間と集まってやれる環境は本当にスペシャルなんだなと思いました」
リーグワン初年度には、リーダーの一人としてゲームキャプテンを何度も務めた。
ディビジョン2に割り当てられたクラブを、1季でトップディビジョンに戻す。
その貢献度は誰しもが認めるもの。でもやっぱりおごらなかった。
「僕はあくまで一つのピース。一緒に成長させてもらいました」
不惑となったいまでも、若手と同じメニューをすべてこなす。
強度やボリュームを抑えることはしなかった。
「ブロンコテストも全部やらせてもらいました。そのおかげで(GPSなどの)数値は上がっています」
まさに「AGE IS JUST A NUMBER」。年齢はただの数字でしかない。
飛躍的に競技レベルの上がるトップリーグ、リーグワンにあって、控えに回るシーズンこそあったが、ほとんどのシーズンでダイナボアーズの背番号2を守った。
「だからチームとしても、勝ち残るためには強度を上げざるを得ない。『今シーズンの練習はきつい』が毎年更新されていきました。こんなにキツくなれるのかと。人間、良くも悪くも慣れるというか…。悲しいかな、慣れてしまった僕がいました(笑)」
あらためて40歳。HOでは次に年長の宮里侑樹とも、干支1周分離れている。
ここまでラグビーを続けているとは想像できなかった。
帝京大卒業後にIBMへ入社したのも、「トップリーグでは通用しない」と思ったからだ。
それから3年後、平尾誠二さん(故人)のラブコールを受けて神戸製鋼入り。
いまでもブレない指針ができたのはこの頃からだった。
「自信のない状態でこの世界に入りました。◯シーズン過ごしたいとか、◯歳までプレーしたいという明確な目標なんてなかったです。今日も1日頑張ろう、今日も1日頑張ろうを繰り返してきました。目の前のことを一生懸命やり続けてきて、後ろを振り向いたらそういう道のりがあったというだけの話です」
結局、神戸には7年いた。順調に試合出場を続け、クラブキャップは98まで積み重なっていた。
あと1年過ごして100キャップを達成して区切り良く引退――。そんな将来も描いたが、過去の自分が首を横に振った。
「それはなんか違うなと。華々しく終わるのではなくて、もう一度、原点に戻ろうと」
安江のラグビーの原点は、コンクリートの駐車場だった。
ラグビーを始めた場所、帝京高校は野球部とサッカー部の強豪として知られる。
グラウンドはその二つのクラブが使うから、ラグビー部が使える時間はなかった。
思い切りグラウンドを走り回れるのは週に一度だけ。
それも、場所は借りた地域のグラウンドだった。
「駐車場でラインアウトやスクラムをしたり、学校の目の前にある石神井川の土手を走って筋トレするくらししかできませんでした。あと、空き教室にマットを敷いてタックルの練習もしましたね」
その当時を思い出した。
「実は借りていたグラウンドは、いまのJISS(国立スポーツ科学センター)にありました。それで2年か3年生のときに、測定に来ていた日本代表を見ました。都大会の1、2回戦で負けるチームだったので、当時は漠然とすごいな、くらいにしか思っていませんでした。
でも社会人1年目に代表に呼んでもらえて、メディカルチェックでJISSに行ったんです。自分があの立場になって戻れて、すごく感慨深かった。何にも変えがたい喜びでした。
その原点を思い出したときに、このまま神戸で終わるのか、三菱でもう一度這い上がるのか、選んだのは後者でした」
そうしたラグビー人生を送ってきたから、ダイナボアーズ退団をきれいな終わりとしなかった。
自分を求めるチームがある限り、そこでまだまだプレーを続けたい。
コンディションは万全。若いときより、ちょっと痛みが引かなかったり、打撲が消えなかったりするくらいだ。
「チャンスをもらえる環境があるなら、足掻きたいと思っています。D2でも、D3でも、土のグラウンドでも、どこでも行きます。オファーはいつでも待っています。ブロンコを走る準備はできています」「そうした姿勢がダサいと思う人もいるかもしれません。でも、僕自身ができるラグビーへの恩返しはチャレンジし続けることだと思っています。その姿勢で何かを感じ取ってくれるファンであったり、選手がいる限りは続けたいです」
最後まで泥臭く。華やかな終わりはいらない。