コラム 2025.03.19

【ラグリパWest】オレンジの兄貴分。鈴木力 [クボタスピアーズ船橋・東京ベイ/チームディレクター]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】オレンジの兄貴分。鈴木力 [クボタスピアーズ船橋・東京ベイ/チームディレクター]
昨年8月、リーグワン一部のクボタスピアーズ船橋・東京ベイのチームディレクターについた鈴木力さん。「年下の上司」であるGMの前川泰慶さんを支える。チームスローガンの「Take your shot」は、選手たちそれぞれに挑んでほしいという思いが込められている

 前川泰慶(ひろのり)にとって、鈴木力は「年上の部下」になる。

 ありがちな扱いにくさは皆無。その能力と人間性に全幅の信頼を置いている。
「ちからさんにチームに戻ってきてもらうのには時間がかかりました。前の職場でも評価されていましたから」
 前川の目じりは普段以上に下がる。

 入社年次の差は5。前川は39歳。リーグワンの一部、クボタスピアーズ船橋・東京ベイで現場トップのGMについている。

 この略称「S東京ベイ」で45歳の鈴木はチームディレクターを任されている。就任発表は昨年8月。強化スタッフの序列ではヘッドコーチ(監督)のフラン・ルディケの上に来る。前川を支え、大学生の採用の軸にもなる。

 前川の言う「前の職場」はクボタの鋼管杭(こうかんくい)の部署だった。営業として5年半、在籍した。鈴木は振り返る。
「部署にとっては14年目の新人でした」
 この鋼製の杭は高層ビルなどの基礎として、地中に打ち込む。鈴木は5大ゼネコンのひとつ、大林組の担当となり、横浜を中心にした神奈川県の工事に主に関わった。

 クボタは鋼管杭の営業を工事現場に行かせる。現場を肌で感じて、そこから意見を上げさせる。それを生かし、技術が改良を施し、より品質を高める。ただ売るだけではない。社を挙げて製品に誇りを持たせる。

 現場の親方たちを引きつける魅力が鈴木にはあった。現役時代、181センチ、90キロだった体は若干、横に広がった。その分、恰幅(かっぷく)はよくなる。日焼けの残る顔は笑みが絶えず、福や財をもたらす「布袋さん」のよう。作業服が似合う雰囲気がある。

 ただ、ラグビーの履歴はこの鋼管杭の職場や工事現場ではまったく役に立たない。今、ここで、何ができるか、である。
「一生懸命やるしかありません。そうすれば周りからサポートしてもらえます」
 鈴木は自分の経験から真理を得る。

 その5年半で人の情けも知った。
「工事でこちらが言い訳できないような大きなミスがありました」
 大林組の責任者が現場を押さえる。失敗を責め立てず、善後策を考えてくれた。そのおさめ方、そして恩義は今も忘れない。

 鈴木のクボタ入社は2003年4月。リーグワンの前身、トップリーグの元年だった。
「荻窪さんや石川さんに誘ってもらいました」
 荻窪宏樹(こうき)と石川充は今もチームに残る。荻窪はアドバイザー、石川はビジネス関連のプロデューサーである。

 FLだった鈴木の記憶に残るのは入社3年目のマイクロソフト杯である。このカップ戦はリーグ戦後に開催された。クボタは初戦で三洋電機(現・埼玉WK)を40-24で破る。リーグ戦8位が同2位を打ち倒した。2006年1月22日だった。

「秩父宮で雪かきをして試合をしました。世代のベストゲームだったと思います。タイソンさん、赤塚さん、柴原、小堀、吉田さんもいました。勝って自信になりました」

 マイク・タイソンに似ていた中島貴司はPR。赤塚隆は194センチの大型LOだった。柴原英孝と小堀弘朝は決定力のあるWTB。吉田英之はSO、CTBなどをこなした。日本代表キャップは赤塚が6、吉田は16を得ている。

 鈴木の現役は9季。主将もつとめた。最後の2季はコーチ兼任。二部のトップイースト落ちも経験する。リーグ戦の最高は6位。2012年からFWコーチ専任になる。監督は石倉俊二(現・専大監督)。4季をともに過ごした。リーグ戦の最高は9位だった。

「面と向かって、思いを伝えられる選手が少なかった。そこを変えないと勝てません。まずラインアウトのユニットでそのことを訴えました。その4年間だったと思います」

 腹を割らずに信頼はない。ラグビーにならない。当時の選手のひとりが前川だった。チーム改革は、社業に戻った石倉、鈴木のあとを受けたルディケに受け継がれる。この南アフリカ出身の指導者は2022-23のリーグワンでS東京ベイを初の頂点に導いた。

 そのクボタに鈴木は関東学院大から入った。チームは強かった。大学選手権は2、3年時に連覇。1、4年時は準優勝。4年時の39回大会(2002年度)は早大に22-27だった。
「常に頂点を目指せた最高の4年でした」
 志望校にうからず、一浪後の入学だったが、挫折を正解に変えた。

 鈴木は縦への強さを軸に2年から公式戦に出場する。練習最後には3000メートルを走った。疲労でともすれば手を抜きがちになる。
「頑張れるやつで、走れないやつはいない」
 そんな言葉が鈴木を作り上げる。同期は北川俊澄。日本代表LOとしてキャップは43。今は日野RDのアカデミーコーチだ。

 大学の前、中高の6年間は茨城の茗溪学園で過ごした。高3時は主将だった。全国大会は77回(1997年度)。8強で敗れる。啓光学園(現・常翔啓光)に24-26だった。

 茗溪学園に通ったのは理由がある。
「帰国子女でした」
 3歳から7年間、インドネシアで暮らした。父・邦治(くにはる)は商社マン。茗溪学園は国際的な教育でも定評があった。

 中1から競技を始めたのは兄の大(だい)の影響である。千葉の県立校でやっていた。今は鈴木の長男の一平、次男の太平もラグビーに興じている。ともに新2年生。長男は明大中野、次男は関東学院中に通っている。

 子を持つ親の立場からも、鈴木は業務のひとつである採用に臨んでいる。
「クボタの次を任せるメンバーたちです。その責任を感じています」
 子供と同じように慈しみ、育てる。

 やってもらったことを次の世代に返してゆく。そのサイクルが1978年(昭和53)創部のチームの隆盛につながる。鈴木も循環を感じながら、オレンジをより鮮明にしてゆく。

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