コラム 2025.01.31

【ラグリパWest】4連覇とともに生きる。清野海希 [仙台高専・名取キャンパス ラグビー部OB/ダイキン工業]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】4連覇とともに生きる。清野海希 [仙台高専・名取キャンパス ラグビー部OB/ダイキン工業]
仙台高専・名取キャンパスのラグビー部で5年を過ごし、全国大会史上初、そして最長の4連覇を経験した清野海希さん。卒業後はダイキン工業につとめ、今は大阪の淀川製作所で給湯器の製作などに携わっている。後方の建物はテクノロジー・イノベーションセンター。この研究棟は淀川製作所の象徴的な建物である

 清野海希(せいの・かいき)は高専ラグビー界で初めて、そして最長の4連覇を達成したメンバーのひとりだった。

 宮城県にある仙台高専・名取キャンパス時代、2年から全国大会で負け知らずだった。

 年明けの4連覇から7年経った。清野は28歳になった。今、大阪にいる。卒業後からダイキン工業で働いている。グレーの作業服を着て、帽子をかぶる。黒の安全靴はつま先への落下事故を防いでくれる。

 清野の肌は東北出身を匂わす白さ。笑えば、その丸い顔と細い眼はお正月の紙遊びのように福々しくなる。
「4連覇している、していない、でずいぶん違います。してなかったら淋しいですね」
 記録が始まったのは44回大会、年度は2013からである。

 清野は基本的にはSOだった。現役時代の体格は172センチ、79キロ。最終学年の47回大会は3試合すべてに先発した。

 決勝は奈良に27-8。左手甲の骨折を知らず、ラスト3分までプレーを続けた。
「試合が終わるまで痛みは感じませんでした。アドレナリンが出ていたからだと思います」
 仙台に帰って、診察を受けてわかった。

 文字通り「体」を張った4連覇に、会場の神戸・ユニバー競技場では大漁旗が打ち振られる。地元での呼び名は富来旗(ふらいき)。その赤や青のカラフルさは、白基調のジャージーをくっきりと際立たせた。

 その4連覇の中で思うことがある。
「ラグビーは人間力を育てますね」
 始まりとなる2年進級時、最上級の5年11人が卒業で抜けた。大学2年にあたる選手らに大量に去られるのは大きな痛手だ。

 監督の柴田尚都はディフェンスに活路を見出す。現役時代はSH。仙台大から筑波大の大学院で学び、保健・体育の教授になった。柴田には、守りは繰り返せば下級生でも身につく、という考えがあった。

 清野は振り返る。
「きつかった。毎日、何かしらのタックル練習やウエイトトレが入ってきました」
 その時、5年中心にした上級生が、下級生の負担を軽くするため、水運びやグラウンド整備などの下働きを引き受けてくれた。

 その姿を見て感銘を受ける。
「僕たちは疲れ切ってその余裕がありませんでした。それをしなくてもいい上級生がしてくれた。思いやりや気配りを学びました」
 その年度の44回大会の決勝は奈良に5-0。ディフェンスは規律を保ちながら、前に飛び出した。守備面に特化した柴田の正しさを証明するとともに、猛練習は実を結ぶ。

 清野は振り返った。
「得意なプレーはタックルになりました」
 この大会、清野はFBで全3試合に先発する。4連覇の最初を飾った。

 その全国大会はこの1月、55回目を迎えた。母校は決勝で奈良に19-22で敗れた。
「悔しいですね」
 清野は有給休暇を取り、ユニバー競技場で応援した。在阪OBの責任を果たした。

 清野が学んだ高専は「高等専門学校」の略称だ。中学を卒業後、5年間で理系の学びを深化させる。その後は三択。就職、大学の3年次編入、出身校の専攻科への進学だ。専攻科で2年を過ごせば、大卒の資格を得る。清野は就職を選んだ。

 高専進学を決めた理由を話す。
「就職に強いと聞きました」
 4つ上の長兄の大紀(だいき)がいたこともある。ラグビー部を選んだのも、この長兄が先に入部していた。PRだった。

 清野は中学まで野球をやったが、双子で次兄の航希とともに入部する。次兄はCTBで、5年時は主将を任された。兄2人は卒業後、ENEOSにつとめている。

 清野三兄弟が卒業した仙台高専は2つのキャンパスで構成される。名取と広瀬だ。名取の専門は工学(機械)や建築系、広瀬は情報や電子系。その祖は宮城工専と仙台電波である。2校が統合され、仙台高専になったのは16年前だった。清野は機械科の出身だ。

 両キャンパスともにラグビー部がある。名取は宮城工専時代を含め、全国大会の出場は45回、優勝は最多の15回を誇る。創部は1968年(昭和43)だ。この55回大会はアベック出場を果たした。広瀬の出場は2回目。初戦で神戸市立に0-78で敗れた。

 15回の優勝のうち、清野は4回に関わり、ダイキン工業に入社した。4年生の時にすすめられて就業体験に参加した。
「いい会社でした。よくしてくれて、ごはんにも連れて行ってもらえました」
 東北出身ながら地域的な抵抗もなかった。監督の柴田は大阪出身。関西弁だった。

 ダイキン工業のスローガンがある。
<空気で答えを出す会社>
 エアコンを含めた主力の空調事業は世界一。事業展開は約170か国で、従業員はグループや国外を含めれば10万人を超える。

 清野は淀川製作所の特機事業部に籍を置く。給湯器などの製作に携わっている。
「108秒に1台、ラインで流れてきます。それにタンクをつけたりして商品化します」
 週ごとに日勤と夜勤が入れ替わる。入社8年目の中堅は「組長」を任されている。

 組長は100人強の作業員をまとめる。
「僕らの代、高専からは80人ほどが入社しましたが、組長就任は早いと思います」
 昇進にはラグビーが透けて見える。上級生から学んだように職場を見回し、考えられる。就職してからもその経験は生きる。

 淀川製作所にラグビー部はない。プレーから離れることがあっても、そのスピリットは忘れない。ラグビーは4連覇の栄光とともに清野の人生のかたわらにあり続ける。

PICK UP