コラム 2024.08.06

【ラグリパWest】みんなの先生。

[ 鎮 勝也 ]
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【ラグリパWest】みんなの先生。
小6のラグビースクールで、山口良治さんに指導を受け、その楽しさを知った村上晃一さん。山口さんは日本代表選手から伏見工の監督に転じ、全国優勝4回の強豪に仕立て上げた。一方の村上さんはラグビージャーナリストとして、この国のラグビー報道の第一人者になった

 ふとした出会いで人生は定まる。

 村上晃一は山口良治だった。
「小5からラグビーを始めてん。ひとつ上の6年を教えてたんが、先生やった」
 つるっとした日焼け顔には笑いジワが刻まれる。ラグビー報道の第一人者は、「泣き虫先生」を淵源(えんげん)とする。

 村上の父・五郎は経験者だった。その流れで京都ラグビースクールに入る。半世紀ほど前のことは今でも鮮やかだ。西京極の緑の芝、吉祥院(きっしょういん)の土ぼこり…。2つのグラウンドが活動の拠点だった。

 競技2年目、山口と日曜日を過ごす。
「すごい楽しかった」
 ひとりサーカスだった。足の甲を使ったグラバーキックでボールをかごに入れる。
「ころころって転がって、かごの前でポンと跳ね上がって、入るんやね」
 子どもたちが土を盛り、ボールを置けば、つま先で蹴るトゥキックで、ゴールポストのど真ん中を通してくれた。

 山口は現役時代、日本代表のキッカーだった。京都市役所などでFLとして得たキャップは13。1971年(昭和46)、初来日のイングランドとの一戦にも出場した。秩父宮でのナイターは3-6。惜敗は語り草になっている。

 その山口のキャリアから見れば可能な技だが、小学生には驚きの連続だった。このスポーツが大好きになった。

 村上の小5は1975年である。同年、山口は京都市立の伏見工のラグビー部監督になった。保健・体育の教員としての赴任はその前年だったが、前任の監督がいた。

 村上は振り返る。
「先生は今でいうリクルート的な感覚ももってはったんとちゃうかなあ」
 チーム強化には「素材」である。筋のよい子どもがいれば声をかけてみる。

 ひとつ上には、土井聡と清水剛志がいた。
「土井さんや清水さんはうまかったよ」
 2人とも伏見工に入学。LO土井は明大進学の先べんをつけ、FB清水は2つ先輩の平尾誠二を追い、同大に進んだ。

 土井と清水が1年の時、伏見工は全国大会で初優勝する。60回大会(1980年度)の決勝は大阪工大高(現・常翔学園)に7-3。主将はSOの平尾だった。後年、その容姿や明晰な頭脳、そして華麗なプレーで「ミスターラグビー」と呼ばれるようになる。

 山口は監督就任わずか6年で、やんちゃだった高校生たちをまとめ上げ、深紅のジャージーを着させ、日本の頂点に立たせた。涙を流しながら、喜びを絶叫に変える姿から「泣き虫先生」の異名がついた。

 村上の記憶に残っている山口は大衆が持ったイメージとはほど遠い。
「先生は本当に優しくて、熱血という感じはまったくしいひんかった」
 相手を見て、指導を変える。山口の懐の深さを示している。

 村上は中学の部活で陸上に入る。
「結構強くて、土日に練習があった」
 ラグビーから離れる。再開は高校入学後。鴨沂(おうき)では父の後輩になる。
「体育の先生になりたかってん」
 卒業後は大体大に進んだ。監督は坂田好弘。山口の日本代表のチームメイトであり、WTBとしてのキャップは16を得た。

 村上は3年時に快挙の一員になる。1985年の秋、同大の関西リーグ連勝記録を71で止めた。スコアは34-8。村上はFBだった。同大は前年度まで平尾を擁し、大学選手権3連覇を含む4回の学生日本一の称号を得ていた。連勝記録は11年にまたがっていた。

 快挙もあり、村上は「取材する側」に興味を持つ。ラグビー部部長の中島直矢のすすめもあって、卒業後にラグビーマガジンの編集に携わる。その勤務で、上司から山口の講演会に誘われる。現場であいさつに行った。

「先生は両手で楕円を作って、僕の顔に合わせはった。小学生の時はずっとヘッドキャップをかぶっていたから、そうしはった。覚えてるよ、と言われた時はうれしかったなあ」

 山口は教育の本質を語ったことがある。
「思い出作りやな」
 それは村上をしてラグビージャーナリストに至らしめる。そして、81歳になった今でも、子どもたちに思い出を作らせている。
<山口良治杯 美浜町少年ラグビー大会>
 頂点に山口を抱く通称「美浜カップ」は今夏、8回目を迎える。

 その故郷、福井県の美浜に32のラグビースクールが集まる。海の青さ、草木の緑を感じながら、今月25日の決勝を戦う。
「大きくなってねえ」
 山口は感嘆する。大会は2015年に参加4チームで始まった。今はその8倍になる。

 その発展を支えたひとりは坪井一剛だ。大会を主催するNPO法人「京都伏見クラブ」の理事である。坪井は伏見工でNO8主将として、監督の山口に2回目の全国優勝を贈った。72回大会(1992年度)の決勝は啓光学園(現・常翔啓光)に15-10だった。

 山口の妻、憲子は坪井のことを覚えている。
「ウチによくごはんを食べに来ていたわね」
 同じ釜の飯を食う。師弟関係を強める。坪井はその恩義を忘れない。今はお返しに恩師とともに思い出を提供する側に回る。

 山口が育て上げた伏見工はその後、全国大会の優勝回数を4に伸ばす。保善、桐蔭学園と並び、歴代6位の記録だ。現在の校名は京都工学院。洛陽工との合併があった。

 その歴史の中で、山口の教え子は数知れない。それは、坪井のように3年間をともに過ごした者にのみ限定されない。村上のように長さに関係なく、謦咳(けいがい)に接した者たちすべてを含める。

 みんなの先生たるゆえんである。

山口良治さんの福井県の美浜の実家には倉庫があり、長嶋茂雄さんとのツーショット写真や貴重な資料が詰まっている。近くのグラウンドでは、8月末に8回目となるラグビースクールの大会が行われる。 大会名は山口さんの名前を冠している

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