コラム 2024.05.14

【コラム】伴一憲先生を思う。

[ 渡邊 隆 ]
【コラム】伴一憲先生を思う。
1988年に2度目の花園出場を決めた早大学院。前列右端が伴先生。(大西鐵之祐先生追悼集【荒ぶる魂】より)



「吾々は草木である。――そのことを吾々が認めようと認めまいと、そんなことにかかわりなく――天空に花を咲かせ、実を結びうるためには、吾々は根をもって大地から生い立たねばならない草木である」

 大西鐵之祐先生が書かれた「闘争の倫理 ――スポーツの本源を問う」その中で、大西先生と、伴一憲先生(ばん・かずのり/哲学者、早大学院長)との対話に、ドイツの哲学者ハイデッガーのこの言葉が載っている。

 天空に自由で高い精神を花開かせるには、五感をもって感じる直接経験、その大地から心を動かす何かを汲み取ること。その根本経験、そこまで下りていって初めて言葉は本当の生きた言葉になっていく。

 今の生き方は、大地を忘れてしまい、言葉だけが独立し浮遊物のように彷徨っている。偉大な先人は、単なる抽象概念ではなく、言葉の底に由来を持っている。だから、その言葉が信念として生きる。と展開しています。

 大西先生は、戦地での生死体験を経て、戦友を亡くし、敗戦の屈辱を経験し、その後、大学で人材育成、国民の幸せのためのナショナルリーダーを育てることを目的に半世紀、ラグビーと共に闘ってきた。

 まさにスポーツを哲学として捉え、世界を視野に、別次元でラグビーを思考し、実践してきた先駆者である。

 伴一憲先生は、大西先生が早稲田大学の付属校、早大学院ラグビー部を指導していた頃のラグビー部部長である。
 我々の同期、寺林努、佐々木卓たちが東京都大会で伝説の久我山戦に決勝で勝利し、初めて鈴木埻監督のもと、花園に行った年である。その後、3度に亘り早大学院を花園へと導いた。

 その年の多くの部員が大学でラグビーを続け、4年時には、大西先生がOBに請われて1年間だけ監督を受ける。という巡り合わせになる幸運の星の世代であった。

 何故、あの試合に勝てたのか。久我山は前年、花園で優勝し、後に日本代表となる選手が沢山いた。そんなチームに偏差値75の、大西先生曰く「エンピツより重いものを持ったことのない」か細いガリベン高校生たちが、スクラムで数十メートルを走るように何度も押されながら、勝った。

 その試合は、高校ラグビー史上屈指の奇跡試合に挙げられると思う。この興味深い一戦は、またの機会にあらためて深く考察したいと思います。

 その歓喜を共にした年代が、中心の4年生でなければ、大西先生は監督を受けなかったのではないだろうか。65歳で日本一を宿命と課せられた大学の監督を受ける。それがどんなことか。重い責任を背負い、大学の授業も持ちながら、毎日グラウンドに通い、僕たちに心血を注いでくれた。

「闘争の倫理」(鉄筆文庫)という本は、大西先生の主となる文章があり、そのテーマ毎に、伴先生、大竹先生、榮先生と、一年間に亘る研究、対談の録音テープ、原稿用紙3000枚の膨大な内容を整理、編集したものが挿入されている。

 1995年、大西先生が亡くなった翌年、有志による一年間の準備を経て一周忌が行われた。その際、伴先生に「大西鐵之祐講座を開いてください」とお願いしたことがある。

 大西先生を最も深く理解していたのは、伴一憲先生と日比野弘先生、と確信していたからだ。共に戦ってきた実戦が底にある、これが本物の学問だと思った。

 僕の構想としては大学同期を中心に、早大学院、早稲田スポーツ(大西先生が顧問をされていた)にも声を掛けて、大西先生を慕う方々と「大西鐵之祐研究」を、月イチで、伴先生の講義1時間、質疑対話1時間、これをまず1年間やってみたかった。
 しかし、同期も忙しい年代になり、伴先生も退職後、身体が思うようでなかったことから実現には至らなかった。

 その後、伴先生が執筆された「家郷を離れず」という書籍をいただいた。伴先生が師事した西谷啓治先生との対話がその中に載っていて、西谷先生はハンブルク大学客員教授となり、ハイデッガーの自宅を頻繁に訪れ、議論を重ねていた哲学者である。

 その本は「空と即」「有の開け」など難解な本であった。
「真にあるものを把捉する源は、知性ではなく超感性的な理性とその思惟である」と。

 時は過ぎ、2016年早大学院ラグビー部OB会による「大西鐵之祐先生生誕百年シンポジューム」が早稲田大学大隈記念小講堂で開催され、僕もパネラーとして参加し、伴先生が「教育者としての大西鐡之祐先生」と題して基調講演を行った。

 魂の炎が見えるような熱い、伴先生最後の講演を完結された。40分という持ち時間をぴったりとまとめ上げ、伴先生の、この講演に掛ける思いが重く伝わってきた。今も、その興奮の余韻が心の奥に残っている。

 その後、伴先生が僕の所に来て「ドス君、これであの時の約束を少し果たせたかな」と、いつもの柔和な笑顔で話し掛けていただいた。
 もう20年も前の話をきちんと覚えていてくれて、その思いを繋ぎ、約束を果たす。という、伴先生の誠実な人生観が伝わってきた。

 伴先生はその後、公の場で話す機会はほとんどなかったのではないだろうか。あの日も相当の覚悟で、本調子ではない身体を奮い立たせて、使命感だけで講演に臨んでいただいたような気がする。

 その後、伴先生もお亡くなりになって、あの時の講義ノートと、「家郷を離れず」だけが僕の手元に残った。




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