コラム 2024.02.09

【ラグリパWest】初の慶應ラグビー。平井汰郎[京都市立京都工学院高校ラグビー部/SH]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】初の慶應ラグビー。平井汰郎[京都市立京都工学院高校ラグビー部/SH]
伏見工時代も含め、京都工学院のラグビー部から初の慶應進学が決まっている平井汰郎。170センチ、70キロのSHである。大島淳史監督(右)と体育教官室で写真におさまる。明るい西日を浴びて、伏見工時代の深紅のジャージーが輝いている

 京都工学院のラグビー部から初めての慶應入学である。

 平井汰郎(たろう)のジャージーは深紅から黒黄(こっこう)に変わる。
「わくわくしています。とても楽しみです。先駆けになれてよかったです」
 透明感のある俳優ばりの顔は笑み崩れる。170センチ、70キロとラグビーでは細身の体。慶應ボーイのスマートさがすでに漂う。

 ラグビー部監督の大島淳史にとっても万感の思いがある。
「伏見工時代を通しても慶應は初めてです」
 京都工学院の前身は伏見工。その創部は1960年(昭和35)。歳月は60年を超えた。その間、冬の全国大会で優勝4回を成し遂げた。歴代6位タイの記録になる。

 一方の慶應はこの国のラグビーのルーツ校である。創部は1899年(明治32)。大学選手権優勝は3回。これまで、ラグビーを通したAO入試はあったが、工業や商業などの実業高校系は通りにくいとされていた。

 慶應OBで一番に祝福の連絡を大島に入れたのは「ゴリ」こと野澤武史だった。44歳。大島の3つ上である。
「おめでとう。扉、開いたな」
 ともに現役時代はFLで、大島は日体大のころ、対抗戦で戦った。野澤は今、日本ラグビー協会のユース戦略グループにいる。

 慶應合格は京都工学院の開校と同時に新設されたフロンティア理数科の存在が大きい。平井はこの科に属している。従来の機械や建築などの実業系に加えられた。

 大島はフロンティア理数科を説明する。
「大学進学に特化しています」
 京都工学院に3学年が揃ったのは2017年の4月。伏見工は少子化などの影響で、洛陽工と再合併し、この新校が出来上がった。

 フロンティア理数科は各学年7クラス中2クラスの設定。平日5日間で4日が7時間授業である。土曜も学習会などが入る。
「学習会がある時は午後から練習します」
 大島は配慮を怠らない。

 平井が受かったのは文学部。昨年11月にあった自主応募制の推薦入試を受けた。
「哲学書の英訳と内容に則した質問に答えます。小論文もありました」
 課題は大きく2つだった。

 合格のための努力は続けられた。
「毎週月曜は練習がオフなので、英数の個別指導塾に行っていました」
 普段は約3時間の練習を終え、勉強をする。睡眠は4時間の日もあった。
「そういう日もあったということです。寝るのは寝ていました」
 苦労話を誇ることはない。

 大島は平井のその姿を見ている。
「むちゃくちゃ頑張っていました。大変やったと思う。報われてよかったです」
 少し顔がゆがむ。目が赤い。

 慶應側も援護をする。新監督になった青貫浩之が昨年6月、京都に足を運び、大島と受験について話した。担当してくれたリクルーターは岡部雅之だった。
「過去問題をいただいたり、受験まで何回かアドバイスをもらいました」
 平井には感謝がある。

 慶應のイメージを語る。
「ひたむきにディフェンスにいって、タレントぞろいに競り勝つ印象です。自分も才能に恵まれているほうではありません」
 京都工学院で平井はSHの控えだった。

 正SHは同期の関太陽。高校日本代表候補である。大島は評する。
「爆発的なアタック能力を持っています」
 そのライバルを平井は讃える。
「代表候補がいたから頑張れました」

 大島は昨秋の全国大会府予選の準決勝でケガの関に代わり、平井を先発させた。
「よかったです。基本的な身体能力は高いし、スキルもあります」
 苦戦を予想した洛北には46-7と大勝した。

 平井が競技を始めたのは3歳。南京都ラグビースクールに入った。小3で京都プログレRFCに移る。中学は伏見。楕円球はずっとかたわらにあった。

 それは、父・謙一の影響である。父はユニチカでプレーした。身長は低いが丸々としたPRだった。京都工学院を選ぶきっかけを作ってくれたのもその父だ。

 父のユニチカのチームメイトに松田大輔がいた。息子は力也。埼玉WKのSOで日本代表キャップ37を持つ。力也は伏見工のOBだった。

「リキヤくんには何回も会っています。合格は父が報告してくれました。『すごい、すごい』ってよろこんでくれたそうです」

 29歳の松田にとって、平井は後輩ではなく、少し年の離れた弟という感じだろう。平井には2つ下に双子の弟がいる。大次郎と謙三郎も京都工学院でプレーをしている。

 平井は高校の3年間を振り返る。
「ここにきてよかったです。勉強もしっかりやらせてもらえました」
 来月には生まれ育った京都を離れ、横浜は日吉の住人になる。ラグビー部寮に入る。

 その平井に期待を寄せる中に山口良治もいる。京都工学院の総監督である。
「立派だなあ。あのタイガージャージーをぜひ着てもらいたい」
 虎の色はすなわち黒黄。山口は伏見工を赴任6年目で初の全国優勝に導いた。60回大会(1980年度)のSO主将は「ミスター・ラグビー」とうたわれた平尾誠二だった。

 山口がいたからこそ、京都工学院は高校ラグビー界で一目を置かれる存在になった。その最大の功労者の脳裏に平井の名前は刻まれる。山口は今月15日で81歳になる。

 平井は幸せな人生を歩んでいる。

PICK UP