【ラグリパWest】平尾誠二さんの命日。
今年もまた10月20日がやって来て、過ぎ去って行った。
平尾誠二さんの命日である。7年前、がんでこの世を去った。53歳だった。
その整った容姿、聡明さ、華麗なる経歴から「ミスター・ラグビー」と呼ばれた。
同志社から神戸製鋼(現・神戸S)の現役時代、主にCTBとしての日本代表キャップは35を数えた。1999年のワールドカップでは日本代表の監督も経験した。
その平尾さんが他界してから、ワールドカップが2度あった。4年前は初の日本開催だった。この時は8強で敗れた。開催中の今回は2勝した上でプールステージでの敗退となった。
平尾さんが監督だった24年前の第4回大会は3戦全敗で予選戦敗退だった。今の日本ラグビーの成長は、その平尾さんの挑戦を下層として成り立っている。
平尾さんに代表選手として薫陶を受けたものたちはこの第10回大会をけん引した。NO8だったジェイミー・ジョセフさんはヘッドコーチ(監督)となり、この「ジャパン」を率いた。左PRの長谷川慎さんはアシスタントコーチとして、スクラムを引き締めた。
追加召集されたFBの山中亮平選手は平尾さんが早大から神戸製鋼に招き入れ、その成長を手伝った。24年前、右PRだった中村直人さんの長男、拓磨さんは代表専属のビデオグラファー(映像記録者)になった。
時は確実に流れてゆくが、残るものたちの消息は亡き人を思い起こさせる。
平尾さんと日本代表で一緒にプレーした河瀬泰治さんに教わったことがある。
「俺は人の死は2回ある、と思っている。生物として、その人間の命が終わる時、これが1回目やな。2回目はその故人を知る人たちすべてが亡くなった時や。その時こそが、俺は本当の死やと思っている」
河瀬さんは現在、摂南大の教授であり、ラグビー部の総監督をつとめている。教育者らしい観念がそこにはある。
その言葉を引けば、残されたものの心の中に平尾さんは生きている。
あまたの取材者のひとりとして、平尾さんの生の声を聞かせてもらえたことは幸せだった。指導者につながる、父親としての顔も時折のぞかせた。
あれはお嬢さんの結婚が決まった頃だったと思う。おくさんに「この日に、ここのレストランに来て下さい」と言われた。出かけて行ったら、お嬢さんの交際相手もテーブルに座っていた。
初顔合わせ、びっくりしませんでしたか?
「いいや、別に。そんなもんやろ。こういうことは娘と女親で進めるもんや」
難色は示さなかったのですか?
「反対なんて、しまへんでしたでー。娘の連れて来た相手を否定するっていうことは、俺の娘に対する育て方が間違っていた、っていうことになるからなあ」
息子さんがまだ幼かった頃の話も聞いたことがある。
「息子が俺を遊びで叩くやろ、そしたら俺も叩き返すんや」
どうしてですか?
「自分のやったことがどう返ってくるか、っていうことを教えといたらなあかん。まだ子供や、とかいうのは違うんや」
今、平尾さんの「出世校」である京都工学院(当時は伏見工)も、同志社も苦しんでいる。京都工学院は7大会連続で冬の全国大会出場を逃しており、同志社は関西リーグで2回目の開幕3連敗を喫している。
平尾さんが生きていたら、どういうアドバイスをしていたか…。
「過去は関係ない。大切なんは今なんや」
そういう風に言ったかもしれない。
平尾さんは伏見工時代、SO主将として同校初の高校日本一に貢献した。60回大会(1980年度)だった。その軌跡は『スクール★ウォーズ』として本やテレビドラマ、そして映画にもなった。
同志社では2年の時から大学選手権で3連覇をしている。19回〜21回大会。この記録は帝京大が9連覇するまで最長だった。
神戸製鋼では選手兼監督のような立場で、リーグワンの前身である全国社会人大会と日本選手権で7連覇を達成した。最長タイの記録は1988年度からだった。8連覇はならなかった。地元・神戸を阪神大震災が襲った。
ワールドカップで監督として負けた同じ年度、平尾さんはGMとして神戸製鋼を全国社会人大会と日本選手権で復活優勝させる。そして、連覇につなげた。海外での仇(あだ)を国内でとった形になる。
命日の前後、そういう話で高崎利明さんや村上晃一さんと弔い酒を含んできた。高崎さんは伏見工で平尾さんとHB団を組んだ。今は京都奏和高校の校長である。ラグビージャーナリストの村上さんには平尾さんもその知識や情報などを頼りにしていた。
私たちだけではないはずだ。この時期は特にあちらこちらで、故人を思い出す光景が見られることだろう。平尾さんの2回目、本当の死は、まだまだずっと遠い先にある。