国内 2023.08.07

ラグビーは生き方。森川海斗[三重ホンダヒート/CTB]

[ 明石尚之 ]
ラグビーは生き方。森川海斗[三重ホンダヒート/CTB]
森川海斗は2人の娘を持つ父でもある。今年で6歳と2歳になる。「いろんなことを我慢させてしまったので、一緒にいる時は甘やかしすぎるくらいに接している」とはにかむ(撮影:BBM)

 20年に及んだ競技人生を振り返る。
 やり切った、とは言わなかった。

「ラグビーが好きだったんだなと本当に思います。好きだったからこそ、やり切った感覚が出てこないのかな」

 いつまでも成長したいと願い、どこまでも成長できると信じていたから、やり切ったとは思わなかった。そのための努力も惜しまない人だった。

 三重ホンダヒートの森川海斗が、2022-23シーズン限りで現役を引退した。今後は社業に専念する。

 ラグビーは人生そのものだった。

「ラグビーは単なるスポーツではなく、僕の生き方でした。ラグビーを通じていろんな人と関わり、いろんなエネルギーをもらえた。ラグビー選手として生きていきたいと思えるものでした」

 クレバーで芯の通った人だ。そして、優しい語り口。慕われる人だとわかる。若手の多いヒートにあって、その存在は貴重だっただろう。

 5月で35歳になった。日本ラグビー界を支える黄金世代のひとりだ。
 東海大の同期はリーチ マイケル(BL東京)、前川鐘平(神戸S/今季引退)、三上正貴(BL東京)、木津武士(日野RD/今季引退)ら。山中亮平(神戸S)もしのぎを削った同級生だ。

「ここ数年はメンタルとの戦いでした。この年齢になると、いろんな角度からいろんなものが見えてくるんです。社業では同期が出世していき、ラグビーでは同世代がどんどん減っていく。競争率の高いCTBで戦う難しさに、常に悩んでいました。でも、リーチや山ちゃんが試合であれだけ活躍してるのは、モチベーションになった。前ちゃんとか現役を続けている同世代の人たちとは、頑張ろう、頑張ろうと、お互いを鼓舞し合っていましたね」

 1年1年が勝負だった。
「シーズンが終わると、一度(気持ちが)ゼロになります。来年もやるかどうか葛藤する中で、もう一度頑張ろうと思えた。パフォーマンスを上げる努力もできたと思います」

 出場わずか1試合に終わった2022-23シーズンも、「若い子たちに負けてなかった」と自負する。
「フィジカルの数値でも負けてなかったし、まだ戦える感覚もありました。もっとできる、もっとやりたいと、心のどこかにそうした思いがありました」

 それでも、戦う場所はプロフェッショナルの世界。ディビジョン1に昇格したチームは、海外の大物選手や国内から有望なプロ選手を獲得するなど、以前とは体制が大きく変わろうとしている。生え抜きでは最年長の森川にも、チームを去る時が来たわけだ。

「年齢はただの数字だと思っているけど、外から見れば思うことは多々あるのも理解できます。そういうタイミングだった」と受け入れた。

 そして、周囲への感謝を口にした。
「家族、友人、会社の方々、ヒートに関わる選手、スタッフ、ファンに支えられてここまできました。その人たちにとっては何気ない一言だったかもしれないけど、僕にはありがたい一言で、もう一年頑張ろうと思わせてくれる言葉でした」

 千葉に生まれ育った。幼少からいろんなスポーツに触れた。体操、野球、サッカー、バスケ、空手、陸上…。身体能力は周りの子と比べてずば抜けていたから、どの競技でも結果を残せた。

 中学時代はバスケで印旛地域の選抜に選ばれ、転校先で始めた陸上では、競技歴1年で県入賞(200㍍)。空手では全国大会に出場した(小学時)。

「体を動かすのが好きで、スポーツ選手になりたかった。いろんなスポーツやってきた中で、高校になった時に上のレベルで続けられるスポーツは何かを考えました」

 その答えが、ラグビーだった。

 父が元ラグビーマンだったこと、同じ陸上部だった野崎友晴(のちに明大/PR)が「佐倉高校に入ってラグビーをやる」と宣言していたことにも触発された。
 高校は野崎と同じく、県内有数の進学校である佐倉に進む。江戸時代の藩校から流れを汲む伝統校だ。OBに読売ジャイアンツ終身名誉監督の長嶋茂雄を持つ。

「彼(野崎)が監督に告げ口していたのか、入学が決まったと同時に実家に電話がかかってきました。明日、練習あるから来てと」

 県の決勝に進むチームではあったが、全国的に見れば決して強豪校ではなかった。入部当初こそ30人近くいた部員は、森川が最上級生になる頃にはギリギリ単独校として出られるレベルにまで減少した。「僕らの代の新人戦は辞めた子も呼び戻して、16人で決勝までいきました」。

 チームとしては難しい時期を過ごしたけれど、個人としては「通用する」実感があった。その活躍は、東海大の木村季由GM兼監督の目に留まった。
「わざわざ佐倉まで来てくれました。もうそれが嬉しくって。必要とされてると感じましたし、ここに行こう! と」
 
 しかし、両親にその意向を伝えると、返事はノー。進路相談で早大や法大を受験すると話していたこともあって、「ちゃんと受験しなさい」。
「受験して選択肢がある中で、ここに行きたいというなら応援すると」

 言われた通り、早大、法大に合格した上で、気持ちは揺るがなかったから、東海大に進学した。
 それだから、「ラグビーが嫌になることがあっても、自分はラグビーがしたくてこの学校に来たんだと、その気持ちに立ち返ることができた」という。
「練習から何から高校と全然違くて、ついていくのに必死。1年生の時は、なんでこの選択肢を選んだのだろうと思うことはしょっちゅうありました。早稲田や法政だったら、逃げていたかもしれません」

 在学中の「忘れられない2試合」は3、4年時の帝京戦(大学選手権)。3年時は決勝で1点差の惜敗(13-14)、4年時は準決勝で22-36といずれも勝てなかった。

「3年で負けたことで帝京の連覇を始めさせてしまった。僕らの代はすごく期待されていたけど、それに応えられなかった。思い出しますね、いまだに…」

 卒業後、ホンダヒートに加入したのは、声をかけてもらった中で一番強いチームだったからだ。
「僕らの代は豊作で、競争率が本当に高かった。みんな上のチームにいって悔しかったですね。ヒートはトップリーグに上がったばかりでしたから」

 その気持ちが原動力となり、1年目からレギュラーを勝ち取った。2年目のシーズンを迎える前には、エディー・ジョーンズ体制初年度に日本代表からも声がかかった。
「ニュージーランドに留学中に連絡が来て、急いで戻りました」

 アジア5か国対抗のUAE戦に途中出場。これが唯一のキャップになった。
 準備不足の自分を悔いる。「予想していなかったので、ずっとふわふわした感じで。あっという間に終わってしまいました」

「そうした意味では、自分の考えや感覚がしっかりしてきたのはここ数年です。良い意味で、切り捨てることができるようになった。あれもこれも強化しよう、ではなく、自分の武器、スタイルをしっかり理解した上で何をしなければいけないのかを考えて、これは必要ないと。
 僕の強みはフィジカルだったので、外国人選手と戦うには体重が必要だと思い込んでいた。でもウエートやスピードトレーニングをしたり、細かいステップを磨けば、体重はいらないなと。スピードは上がって、ケガのリスクも減らせました」

「ずっと成長し続けられた」と誇った。
「日本のラグビーの進化はものすごいし、高校生も大学生もめちゃくちゃうまいじゃないですか。だから本当に自分はよくやったと思います」と破顔する。

 ラグビーという存在があまりにも大きく、今後の身の振り方は「はっきりしていません」。「(まずは)目の前にあることをしっかりやりたい」と話す。
 鈴鹿の工場では、部品調達のチーフを任されている。
「いまの部署はOBもたくさんいて、いつも良くしていただきました。いままでの恩を、仕事でしっかり返したいと思います」

 ラグビーに生きた社員選手として、やるべきことをやる。

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