コラム 2023.07.06

【コラム】よいコーチなら勝利を求めよ

[ 藤島 大 ]
【コラム】よいコーチなら勝利を求めよ
※原稿の内容と写真は関連ありません(撮影:BBM)

 なんかいいなあ。これ。

「太陽西に没すれば、明日はいよいよ西医体、勝利の前には涙あり、勝利の後にもまた涙」

 熊本大学医学部ラグビー部に伝わる『ラグビー哀歌』の歌詞である(時代により異なる)。

 西医体とは「西日本医科学生総合体育大会」の略称だ。それはワールドカップではない。全国大学選手権でもない。九州学生リーグの優勝をかけたゲームでもない。しかし、熊大医学部ラグビーにとっての涙の大舞台なのだった。太陽西に没すれば、いよいよ青春の歓喜を呼ぶ新しい朝日が昇る。いまこう書いて気合が入ってくる。

 先日、あるラグビー愛好者に聞かれた。小学生の全国大会は間違っていますか? どう答えたか。「もとからないのなら、なくてまったくかまわない。でも現実に存在しており、長く多くのプレーヤーやクラブの目標になっているのなら、いきなり廃止したり参加を取りやめるのもかわいそうだ」。珍しくない意見かもしれない。

 この主題に向き合うと、どうしても同じ結論になる。

 それは「よいコーチがひとりひとりを導き伸ばせば、激しく勝利を追求しても悪い結果はもたらさない」。反対に「子どもの尊厳を大切にできず愛情を抱けないコーチが、いくら勝利至上からの決別という理想を掲げても、よい結果には至らない」。

 ズバリ、少年少女の側から考えると、よいコーチにめぐり合うかで多くは決まる。なんだか、せんない。しかし、ここが根幹である。

 昨年、柔道の全国小学生学年別大会が廃止された。「行き過ぎた勝利至上主義が散見される」が理由だった。現場に体罰や過度の減量などおかしなことが蔓延していたなら、これ以上の被害を防ぐためにシステムの側、つまり大会をなくして対処するほかないのかもしれない。特定の指導者や組織が子どもを傷つけているのであれば、本来、個別の対応が先だ。「一律」でないと手遅れだとすると、それは放置の期間が長すぎた。

 ラグビーはどうか。筆者の知るスクールのコーチはみなチームの勝利とひとりひとりの喜びを両立させようと悩み、学ぶ者ばかりだ。ただ、すべてがそうだと言い切るわけにもいくまい。

 練習では機会の平等、年齢にふさわしい創造性や自由の尊重をこれでもかと心がけ、なお目標の試合や大会ではあくまでも頂点を求める。と、机の上では思う。

 簡単ではないが、その「きわ」のところで、楽しさ、闘争に臨む真剣さ、悔しさや清々しさのもたらす仲間への愛情の削り合わぬ道を探る。すると子どももコーチも必ず進歩する。「勝ちさえすればいい」とも「勝たなくたってかまわない」とも異なる「必ず勝とう。必ず勝てる」という境地である。

 実はここまで書いた内容は「逆」も真かもしれない。勝利追求をひとくくりに拒む指導を受けても、長じて、勝負の鬼となる可能性はある。

『ドイツの子どもは審判なしでサッカーをする』(中野吉之伴著 )には、かの国の「控え選手なし」や「ある年齢までは全国大会なし」という育成法が紹介される。寛容、自立、人権の観点でラグビーのコーチングの参考になる。そして考えさせられる。ドイツのサッカー男子代表とはトロフィーへのおそるべき執着でとどろく。そちらへ傾かぬように育てられても(ちゃんと)そうなるのだ。

 おしまいに。決戦の前にも後にも涙してきた熊大医学部ラグビー部の面々も白衣をまとえば、脳天を凶器とさせて血走る目でむやみに体当たりなどせず(ちゃんと)冷静で優しいドクターなのである。

【筆者プロフィール】藤島 大( ふじしま・だい )
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。スポーツニッポン新聞社を経て、'92年に独立。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。著書に『ラグビーの情景』『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジンや週刊現代に連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。J SPORTSのラグビー中継解説者も務める。近著は『事実を集めて「嘘」を書く』(エクスナレッジ) 。

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