コラム 2023.06.16

【ラグリパWest】 勝負勘。南藤辰馬 [元 花園近鉄ライナーズ/WTB、FB]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】 勝負勘。南藤辰馬 [元 花園近鉄ライナーズ/WTB、FB]
この5月に終わったシーズンで現役引退を決めた南藤辰馬さん。花園近鉄ライナーズではWTBやFBをこなした。撮影場所は東大阪市花園ラグビー場のバックスタンド下。現在発売中の「ラグビーマガジン」に引退記事が掲載されている樫本敦さんと同じ場所での撮影になった。2人はチームメイトだった。


 25歳の片岡涼亮は、7つ上の「ナンさん」こと南藤辰馬(なんとう・たつま)の凄みを知る。そのひとりである。

 2人が属する花園近鉄ライナーズ(花園L)は4月14日、ホームの花園ラグビー場でコベルコ神戸スティーラーズ(神戸S)と戦っていた。トライを奪われ、27-33と逆転される。

 直後のキックオフ、WTBの南藤は大外から一直線にボールを追う。177センチ、86キロの体を相手の下半身に絡ませ、倒した。

 ケガでスタンド観戦だった片岡は語る。
「あそこはいくだけではダメ。バシッと止めたい。それをナンさんがやりました」
 神戸Sを勢いに乗せない。食らいつかないと勝ち目はない。そのためには試合再開直後。南藤は勝負所をわかっていた。

 そのタックルから11分後、花園Lはトライを奪い返し、ゴールキックを決める。34-33。サヨナラ逆転勝ち。リーグ戦唯一の白星を挙げる。
「結果論ですけど、あそこでナンさんがいったから、勝利につながりました」
 片岡は南藤とポジションがかぶる。そこにライバル視はない。尊敬がある。

 その南藤が現役引退を決めた。結果的にこの神戸S戦がラスト・ゲームになった。
「思い出深い試合になりました。自分のキャリアで今まで14連敗はなかったので」
 涙はない。黒目のぱっちりした男前の顔をほころばせる。

 入部は2013年4月。デビュー戦は同年9月14日のコカ・コーラ戦である。WTBで先発する。スコアは34-14だった。
「勝ったけど、特段、活躍もしませんでした」
 11年間の公式戦出場は67の数字が残る。

 自信のあったプレーを尋ねてみた。
「コミュニケーションですかね。走りがよかったらもっと試合に出ていました」
 BKスリーとして驚く速さも強さもない。ただ、見る、聞く、経験を加え予測する。そして伝達する。選ばれるため、その部分を研ぎ澄ます。その表れがあのタックルである。

 南藤は今季18試合中半分に出場した。先発は神戸S戦を含め7試合。リーグワンのディビジョン1(一部)に昇格したこのシーズンである。肩甲骨を痛めたリハビリに時間がかかったため、6試合目からの出場になった。

 余力を残しながら、32歳で引退する。
「実力ですね。ディビジョン1のレベルの高さも感じました」
 WTBは3年目の片岡や2年目の木村朋也、新人の林隆広が伸びてきた。FBには竹田宜純(よしずみ)や祐将の兄弟。日本代表のセミシ・マシレワもいる。みな自分より若い。

 紺×エンジのチームへの感謝は尽きない。
「めっちゃ楽しかった。人に恵まれました。突出したプレーがないのに使ってもらえた」
 引退後は社業に専念する。南藤は社員選手。勤務先は近鉄不動産である。

 南藤はその不動産を下に置く近鉄グループホールディングスの総合職として入社した。
「仕事で活躍できるように、これからさらに勉強していかないといけません」
 総合職は150近いグループ会社を束ねる社長になれる資格を持っている。

 ホールディングス、そして当時の近鉄ライナーズからは勧誘を受けた。
「関西に帰れるし、強かったので」
 出身は京都。大学は帝京だった。南藤が入る2年前はリーグワンの前身であるトップリーグでチーム最高の5位に入っていた。

 帝京は南藤の入学と同時に大学選手権最長となる9連覇が始まる。公式戦出場は3年から。ここで近鉄に誘われる。
「3年は対抗戦にはほとんど出ました」
 4年時の大会は49回(2012年度)。決勝では筑波を39-22で降した。南藤はリザーブ。後半16分、WTBの小野寛智と交替出場する。小野は同期で副将でもあった。

 帝京には冬の全国大会V4の伏見工(現・京都工学院)から入学した。
「関東でチャレンジしたかったのです」
 伏見工は2年時のみ全国大会に出場し、準優勝をする。87回大会だった。南藤は4試合にWTBとして先発する。ただ、7-12と敗れた東福岡戦は出場していない。
「メンバーはみんな、3年生になりました」
 ひとつ上には横浜キヤノンイーグルスのCTB南橋直哉らがいた。南橋も大学は帝京である。

 伏見工につながるラグビーを始めたのは中1である。神川(かみかわ)だった。
「それまでやっていた野球の体験入部は人気でした。ラグビーは空いていました」
 顧問の花岡武志は伏見工OBだった。

 南藤は3つ下の坂手淳史に中学入学時にラグビーをすすめた。「はい」と応じる。
「彼は生まれた時から知っています。親同士、仲がいいんです」
 坂手がそれまでやったバレーボールは神川になかった。南藤がいなければ、日本代表キャップ33、埼玉パナソニックワイルドナイツの主将HOは出なかったかもしれない。坂手は大学も後輩になる。

 中高大、そして社会人と続けたラグビーは21年に及んだ。この競技と完全に切れることはない。次はレフリーに移る予定だ。
「やってほしいなあ」
 昨夏、滑川剛人(なめかわ・たけひと)に言われた。滑川は大学のひとつ先輩で、日本ラグビー協会の最上、A級を保持する。

 滑川自身もトヨタヴェルブリッツでSHだった。トップレベルでのプレー経験のある人間がレフリーに転身すれば、選手の気持ちが理解でき、試合を円滑に流すことができる。

 南藤は現在、レフリーのC級を保持。近々、B級取りを視野に入れる。
「選手の経験を還元できるようにできたらいいなあ、と思います。ただ、私はサラリーマン。辞令と仕事が優先です」
 自分の立場を見失うことはない。

 南藤の選手人生は、高校決勝で先発を外れ、大学決勝もベンチ、社会人でも完全なレギュラーにはなれなかった。そんな幸運とは言い難い楕円球歴ながら、最後は後輩の心に残る。その凄みは語り継がれてゆくことになる。

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