【コラム】高校時代は3軍だった。
高校時代は3軍だった。
あれから10年。28歳になった。
加藤一希はリーグワン2022-23の開幕から2戦続けてピッチに立った。
クボタスピアーズ船橋・東京ベイのプロップとして、東京サンゴリアス戦、横浜キヤノンイーグルス戦に途中出場を果たした。
所属していた宗像サニックスブルースが休部となったため、今季からオレンジ軍団に加わった。
新天地での2戦を振り返り苦笑する。
「開幕戦は、メンバーが発表されてから、ずっと緊張していました。あんなに大きな試合を、自分が経験できるとは思っていませんでしたから」
自分のやるべきことに集中しようと思ったが、サンゴリアスという強豪を相手にすること、味の素スタジアムという舞台も重なって、普段通りではいられなかった。
2戦目は少し落ち着いて、「1本目のスクラムからインパクトを残せたと思う」と話す。
「ただ、まだ緊張感を味わうまではいっていません」
スピアーズには7月から加わり、環境にも慣れてきた。
それでも、ふとした瞬間に昔の自分に戻り、置かれた立場にふわふわしてしまうと笑う。
「隣に(南アフリカ代表HOの)マルコム・マークスがいて、右うしろのヘル ウヴェ、左うしろの(ピーター・ラピース)ラブスカフニと、日本代表の人たちが自分のお尻を押している。中部大時代(東海学生リーグ)の自分がそれを俯瞰して見ていて、こんな光景を誰が想像していた? と。そんな感じになるんです」
数か月前、引退の文字がすぐそこまで来ていた。
宗像サニックスの休部が決まり、選手たちはシーズン終了の2か月前から次の所属先探しに動いていいことになっていた。
練習が終わり、ロッカールームへ戻る。スマホを確認し、外に出て電話をする仲間たちの姿があった。
あ、どこかのチームから連絡がきたのかな。そんな光景を横目で見ていた。
良い知らせが自分に届くことはなかった。
5月上旬にシーズンが終わっても、その状況に変化はなかった。
宗像に残り、ブルースの施設でトレーニングを続けた。6月末までに声がかからなかったら引退しようと思った。
高校時代の友人の家族が経営する会社にお願いし、トラック運転手として働くか、下働きに励もう。
将来、母校で指導もしたい。通信教育などを受け、資格取得もしようかな。
いろんなことが頭に浮かんだ。
そんな不安な時期に声を掛けてくれたのが中部大学春日丘高校時代のチームメートだった姫野和樹(トヨタヴェルブリッツ)だった。
その友は高校時代からスーパースター。自分は3軍だったけれどウマが合った。
遠征へのバスではいつも隣の席で、部室でも並ぶ仲だった。
「姫野は休部が決まった時もすぐに連絡をくれました。そして、なかなか次が決まらない僕に、自分がお世話になっているエージェントの方に移籍先探しを頼もうか、と言ってくれた」
友のつないでくれた縁がつながった。
スピアーズの採用担当者に情報が届く。その人は、対戦相手として戦った前チーム時代の自分のプレーを覚えていてくれた。
当時はロック。プロップ歴はまだ2年も、「フロントローとしての力は分からないけど来てみてよ」と、練習生としてチームに加わる環境を整えてくれた。
2か月ほど経って、契約成立に至った。
練習生として過ごした期間も不安だった。
前述の友人に、「もし(スピアーズとの)話がうまくいかなかったら、就職をお願いしたい」と電話で話したこともある。
幸せな結末となってあらためて思うことは、すべてのことにいつも全力で、真摯に向き合ってきて良かったということだ。
その姿を誰かが見てくれていて、いろんな人が助けてくれた。
宗像サニックスとの契約が終了して、しばらく無給の期間があった。
そのとき、こんなことがあった。
姫野を起用したビールのCMに、キャストのひとりとして出演した。エージェントの方が、大変な時期だろうからと、謝礼の出る枠を確保してくれたのだ。
「本当にありがたいことでした。僕が出演することは姫野には伏せておいて、撮影現場にサプライズで登場しました。なんでやー、と驚いていました」
人懐っこい人柄が、担当者の心をつかんで得た機会だった。
日本ラグビーを背負って立つ姫野和樹は友人であり、尊敬する人だ。発する言葉が、いつも胸に刺さる。
高校時代の友人たちと集まった時だった。代表グッズを求める仲間たちに余剰品を渡す途中、自分には、「お前にはあげられない。(活躍して)つかみ取れ」と言ってくれた。
「スピアーズとの契約がまとまった時、(エージェントの方を紹介してくれて)ありがとうとメッセージをしたら、『お前自身がつかんだもの。他人に感謝するより、自分を褒めてあげないとダメだよ』と返ってきました」
高校時代の同期は約20人。スポーツ推薦以外で入学したのは自分だけだった。
「同じカズキでも、姫野はセンスがあり、ボールを持っても、タックルをしても、何をやっても一流。練習すればするだけ伸びる。でも僕は、センスがなくて、何もできない。その差をどうカバーするかと考えたら、1分1秒でも自分の方が長く努力する。それしかできませんでした」
後輩たちを前に、自分の歩んできた道について話をする機会がある。
その時に伝えるのは、ラグビーのセンスが足りなくても、努力するセンスなら持つことができるということだ。
「高校時代から毎日、100パーセント、120パーセントの力で練習に取り組んでいました。それだけやれば、毎日充実を感じられるし、一年の最後に、いい年だったと思える。僕はそれを高校3年間続けましたが、最後まで(レギュラーとして)試合に出られなかった。努力はすべてが報われるわけではありませんが、それは次のステージや、違った形になって必ず生きる」
引退の文字がちらついた時も、毎日を全力で生きてきたから、「仕方ない」という心境にもなれていた。
最後の最後に契約を手にできたのも、そんな自分の姿勢を見てくれていた人がいたからだ。
幸運だけでは3軍から這い上がることはできなかった。
花園、高校ラグビーの季節。
いつもスタンドで仲間を見つめていた加藤一希は、同じような境遇にいる少年たちにエールを送る。
「やれることをやり続けよう。それを誰かが見ていてくれて、縁はつながる」
人生捨てたもんじゃない。
雨垂れ石を穿つ。
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。1989年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。