コラム 2022.11.25

【ラグリパWest】地域と社員のために。東耕太郎 [JR西日本/紀伊田辺駅駅長]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】地域と社員のために。東耕太郎 [JR西日本/紀伊田辺駅駅長]
10月1日付でJR紀伊田辺駅の駅長になった東耕太郎さん。宮崎・高鍋高、立命館大、JR西日本レイラーズでロックとしてプレーしたラグビーマンである



 新任地は高鍋を思い出す。生後間もなくから高校卒業までは宮崎にいた。
「似ていますね」
 東耕太郎(ひがし・こうたろう)は今、田辺にいる。和歌山である。

 ともに群青の黒潮が沖を洗い、温暖な緑の大地は物成りがよい。過去と現在の一致に幸せな感覚がある。

 東は10月1日、JR紀伊田辺駅の駅長になった。南紀と呼ばれる地域で要職につく。

「地域の方たちと社員から信頼される雰囲気を作っていきたいと思っています。社員を真ん中に置いて、行動していくつもりです。トップダウンではありません」

 周りを考える。ラグビーマンらしい。駅長室にでーんと座っていない。東が責任を持つのは紀伊田辺の前後、きのくに線(紀勢本線)の初島から江住まで全27駅である。

 雑草が伸びている、と乗客から連絡があれば、部下と一緒に無人駅の除草をする。
「体力的にはタフですが、業務の一体感を生み、お客さまからは信頼していただけます」
 都会駅とは違った学びがここにはある。東は46歳。妻と2人の子供は兵庫に残し、単身で赴任した。

 紀伊田辺の駅長としては16代目。国鉄が分割民営化され、JR西日本になってからである。駅そのものの開業は古い。
「今年は90周年らしいです。そのことで地元のラジオ局に呼んでもらいました」
 1932年は昭和7年。前年に満州事変が起こり、太平洋戦争に続いてゆく。

 紀伊田辺駅は田辺市の中心だ。この市は、和歌山市に次ぎ、県内2番目の7万人が住まう。源義経に最後まで付き従った武蔵坊弁慶の生まれ故郷と言われ、明治、大正、昭和を通じて、「知の巨人」と言われた南方熊楠(みなかた・くまぐす)を生んだ。

 食は全国に冠たるものが多い。魚は今の時期ならモチガツオ。赤身は食欲をそそり、ねっとり歯にからみつく。オレンジのみかんは最盛期を迎える。梅干しも外せない。

 この地の人々は気候と同じで温かい。会合する店がわからず、男性に尋ねた。
「予約しちゃある? まだやったら、わえ(私)がしちゃろか?」
 そんな返しが普通だ。東は振り返る。
「ジーンときました。よそから来たよくわからない自分にそういう応対をしてくれます」
 新駅長をサポートする風土は自然にある。

 東の入社は1999年。芦屋駅の駅員をスタートにこの駅長を含め10職場を経験した。もっとも長かったのは5年。人事に属して、ラグビーによる採用を担当した。チームはJR西日本レイラーズ。トップウェストAに所属する。リーグワンのディビジョン1(一部)から数えると四部に相当する。

「駅長になったのはチームで3人目です」
 選手としては14年を過ごした。右耳が餃子のように膨れている。左ロックが多かったため、スクラムでそこを擦りまくる。現役時代は187センチ、87キロの体格だった。

 競技を始めたのは高校から。高鍋である。それまでバスケットボールをやっていた。
「ラグビーが強かったですから」
 高鍋はこの冬も宮崎代表として全国大会に出場する。節目の30回。連続出場は12年に伸ばした。

 楕円球に行ったのは別の理由もあった。
「父のすすめもありました」
 父の洋一郎は看護師だった。薬物中毒の患者に寄り添う優しい人だった。東の晴れ姿を見ることなく、7年前に他界した。

 高校時代の練習はきつかった。
「2時間、練習をしたあとで、1500メートル走のタイムトライアルがありました」
 同期は10人以上が脱落した。

 逃げなかった成果は得る。高3時には全国大会に出場する。74回大会(1994年度)だった。1回戦は若狭東を40−0と圧倒したが、2回戦で大津(現・大津緑洋)に8−22と敗れた。この出場は同校9回目にあたる。

「1年の時は三輪さんの代で、強い学年でした。でも最後は全国大会に行けませんでした。僕らは弱いと呼ばれたのに行けました」

 三輪幸輔はセンター。明治から九州電力に進んだ。全国出場は東の学年の3年間の精進、ハードトレを裏付ける。

 大学は立命館。ひとつ上の先輩2人がラグビー部から初めて入学したこともあった。ひとりはスクラムハーフの奥野徹朗。トヨタ自動車に就職し、BKコーチなどをつとめた。

 東の受験が決まり、ラグビー部首脳の高見澤篤があいさつに京都から宮崎に出向く。東は校門で直立不動で出迎えた。
「今でもそういうもんだと思っています」

 立命館では1年から公式戦出場。関西リーグの成績は1年が入替戦出場の8位。以後、4、7、6位だった。2年時は立命館にとって2回目となる大学選手権出場があった。
「僕はケガで出られませんでした」
 初戦で日大に29−72。33回大会だった。

 そして、JR西日本のラグビー部強化と時を同じくして入社し、ここまで来た。
「ラグビーなしでは今はありません。上司や同僚、後輩に支えられた。人に恵まれました」
 駅長はやりたかったポストのひとつだ。

 東はラグビーのよさを「多様性」と言った。
「色んな人がいて、それぞれに居場所がある。だから、つながりができて、しんどいことをやりきれると思います」
 その特性は身にしみついている。部下の一人ひとりを尊重し、ともに役務に邁進する。地域と会社のため、それは家族の幸せにもつながってくる。的を射た人の配置であることは言うを待たない。


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