コラム 2022.09.29

【ラグリパWest】表現者の血。村田毅 [花園近鉄ライナーズ/フランカー]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】表現者の血。村田毅 [花園近鉄ライナーズ/フランカー]
日野レッドドルフィンズから花園近鉄ライナーズに移籍した村田毅。フランカーやロックとして、チーム初となるリーグワンのディビジョン1(一部)での戦いを支えたい



 笑うと普段にまして目は細くなる。
「表現ができればいい。それが自分にとってはラグビーです」
 村田毅(つよし)は花園近鉄ライナーズの新入団フランカーである。

 その血筋は表現者だ。祖父の省蔵は名の通った洋画家だった。石川県立美術館が蔵する『春めく』は改組日展の内閣総理大臣賞に輝いた。黄色の空が萌えを感じさせ、白の雪解けが明るい。

 父の琢真は建築家。母は「しゅうさえこ」の芸名を持つうたのおねえさんだった。兄の匠(たくみ)はロックバンドの「Carnavacation」(カルナバケーション)を組む。来日外国人をその国の国歌で迎える「Scrum Unison」(スクラムユニゾン)の一員でもある。

 妻の英理子ですら表現者である。アスリートフードマイスターの資格を持ち、『GOOD HABIT 心はずむ毎日の、うれしい食習慣』(山川出版社)の著作がある。
「家族はやりたいことをやって生きています」
 村田もその幸せに連なっている。

 4か月ほど前、5シーズン籍を置いた日野からスタッフ転向の打診を受けた。
「まだ選手としてやれる感覚はありました」
 表現者でいたい。ほかの数チームと交渉する。合意には至らない。
「ナイフで刺されている感じ。自分の中ではズタズタでした」
 12月で34になる年齢に疑問符がつく。専門のフランカーも選手があふれる。

 そんな暗い日々の中、スマホが鳴る。太田春樹からだった。花園近鉄のFWコーチである。日本代表などで一緒だった。村田はキャップ7を持っている。
「夢なんじゃねえか、と思いました」
 場所はディズニーランド。言わずと知れた夢の国である。気晴らしもあって、就学前の子供2人を含め家族4人で訪れていた。

 花園近鉄にはお家事情がある。フランカーに若手が多い。丸山尚城と菅原貴人は26歳、横井隼(はやと)はひとつ下の25歳。育成も含めベテランの力を借りたい。186センチ、101キロの村田はロック使いもできる。

 引っ越しは7月末。新居は東大阪。ホームの花園ラグビー場近くに定めた。
「めちゃくちゃいい。広いし、東京に比べたら家賃も安い。近くに公園もあります」
 初めての関西居住もご機嫌である。

 花園近鉄はその部歴が90年以上になる。創部は1929年(昭和4)だ。
「僕の個人番号は638です。慶應と同じで歴史の一部になっている感覚はあります」
 母校に蹴球部ができたのはその30年前。日本ラグビーのルーツ校でもある。

 慶應の卒業生としては社員、プロを通じて初の選手となる。
「誰もいないところに行くのが好きなんです」 
 NEC(現・東葛)でも初の新卒社員として入った。表現者はまた開拓者でもある。

 大学では1年からロックで公式戦に出場。新人の大学選手権は44回(2007年度)。決勝で早稲田に6−26で敗れた。以後、黄黒(こっこう)ジャージーのファイナル進出はない。

 当時は大学も日本選手権に参加した。45回大会の1回戦は旧名の近鉄と戦う。
「バツベイさんに80メートルを走られました。バケモノでした。そのチームに今いる。縁を感じています」
 ルアの愛称があった120キロの巨漢を止められなかったことを覚えている。試合は14−45と圧倒された。

 慶應へは付属の志木から上がった。ラグビーは入学後に始める。
「泥まみれで走る姿が輝いていました」
 高3秋、最後の花園予選は4強で県浦和に抽選負けした。村田はキッカー。中学時代、サッカー部だった。試合終了直前、イージーな正面左のPGを外してしまう。

「試合前日は色々なところから蹴って、練習を終えます。その時はその正面左を外した。入るだろう、と思って蹴り直しをしなかった。なめていました。納得するまでしないと後悔する、ということが教訓になりました」

 その「納得する」を強く意識したのは7年前のワールドカップの時だった。
「全部やり切りました」
 ただ、本大会には届かない。村田はヘッドコーチ(監督)のエディー・ジョーンズによってバックアップメンバーに回された。

 リーチ マイケル、マイケル・ブロードハースト、ホラニ龍コリニアシらの壁は厚かった。それでも、持ち前の仕事量で勝負すれば割り込める余地はあると思っていた。

「でもその勝機がある、と感じた選手も人間性がすばらしかった、僕は31人のスコッドに入るのがゴールでした。エディーさんはこのチームに必要な人間かどうかを俯瞰して見ていました。見ている所が違いました」

 残念な結果だったが、納得はしている。この2015年の大会で日本代表は南アフリカを34−32と破る金星を含む3勝を挙げた。

 当時の所属はNEC。6年在籍した。2017年からプロ選手として日野に移籍する。ここでは1年でトップリーグに上げる原動力になり、2018年から2年、主将もつとめた。

 ここ2年ほどはひざを痛めたり、あごの骨折や脳震とうに見舞われた。今は体をいたわるセルフケアにかなり時間を割く。

「ストレッチやマッサージをします。長い時は練習前に1時間、練習終わりにはトレーナーに加わってもらって2時間ほどします」

 万全の状態で12月のリーグワンの開幕を迎えたい。
「なんでもいい。自分がいなくなる時にチームが少しでもよくなっていたら」
 花園近鉄にとってはディビジョン1(一部)に昇格して初めてのシーズンになる。村田にとっては社会人3チーム目。熟練を表現し、紺×臙脂ジャージーを押し上げたい。


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