【コラム】ふたたび歓喜の夜を。
友人から新聞記事(中日新聞)の写真がスマートフォンに届いた。9月25日だった。
浜松駅の南、徒歩10分ほどのところにある居酒屋『たこたこあがれ』が前日に閉店したという内容だった。
記事は、ビルの老朽化により立ち退きを求められたのを機に同店が閉店を決断したと伝えていた。
最終日には馴染みのお客さんが大勢訪れ、47年の歴史に幕を下ろしたとある。
一度だけ訪れたことのある店だ。2019年9月28日の夜だった。
同日、小笠山総合運動公園(エコパスタジアム)でおこなわれたワールドカップ(以下、W杯)の日本×アイルランドで、赤白のジャージーは19-12と勝利を手にした。
歴史に刻まれた興奮の80分。当然、その日の取材は長くなった。
エコパに観戦に来ていた大学時代のクラブの後輩、佐藤円一郎と「試合後、時間が合えば飲みにいきましょう」と約束していた。「だいぶ遅くなるよ」と連絡を入れ、合流したのは午後11時近かった。
そんな状況の中で、円一郎が8人で入れる店を見つけてくれた。それが『たこたこあがれ』だった。
小さな路地にある同店には、日本代表のジャージーを着たファンの方も数人いた。
我々8人は、興奮の80分を振り返りながらビールを飲んだ、飲んだ。
お店の大将は我々の酒宴を笑顔で、優しく見守り、遅くまでつき合ってくれた。
今回の記事で、店主が森田昭さんと知る。お疲れ様でした!
そのアイルランド戦の日のことは、深く記憶に刻まれている。
ビッグスクラムを組んだ直後のPR具智元の雄叫びは当然。試合中の記者席で、隣のベテラン記者が机をバンバン叩きながら「行けっ」と叫んでいた。
試合後、旧知のカメラマンと目が合った。言葉もなく握手。涙が出そうだった。
弊社社長から祝福メールも届いた。
忘れられない記憶は、ワールドカップの重さからだろう。
取材者でさえそれくらいの思いを持っているのだから、選手たちの懸ける思いは、とてつもなく大きい。
大会スコッドを決めるセレクションのあと、思いが届かなかった選手たちに会うと「わんわん泣いた」と聞くこともある。
10月8日、ワールドカップ2021がニュージーランドで開幕する。
各国の女子代表が世界一を争う大会は2017年以来。当初は昨年開催されるはずだったが、コロナ禍の影響で開催が1年延びた。
サクラフィフティーンこと女子日本代表はプールBに入り、カナダ、アメリカ、イタリアと戦う。
9月中旬に日本を発ったチームは、9月24日にオークランドのイーデンパークで女子ニュージーランド代表と戦った。
WTBポーシャ・ウッドマンひとりに7トライを奪われるなど、計15トライを許して12-95と大敗した。
大会前の大敗。本番が不安だ。
しかしPR南早紀主将は、「これがワールドカップでなくてよかった」と話し、続けた。
「(本番では)この経験が活きる」
8月、アイルランドと戦った。第1テストマッチに35点差で敗れるも、1週間後の再戦では完勝した。
その時の経験が、落ち着きの下地にある。
南主将は大会前、W杯へ続く道の中で、これまで代表チームに参加してくれたすべての選手たちの思いも背負って戦うと言った。
スコッド入りを懸けた争いの末に、サクラフィフティーンから離れた選手たちの涙を見てきた。
全身全霊をかけて戦う責任を胸に秘める。
「スコッドから外れた選手たちは、もちろんセレクションから漏れたことも悔しいけど、この仲間、このチームで一緒に戦えないことが残念と言ってくれました。そう言ってもらえるだけの集団になったことが誇らしいし、その思いを感じてプレーしたいと思います」
一丸となって戦う集団に加われなかった選手たちの涙は、エナジーの一部でもある。
仲間への愛情、そしてチーム愛が大きければ大きいほど、スコッドを外れたときの涙も多くなる。
2015年のW杯。エディー・ジョーンズ ヘッドコーチのもと、日本代表は南アフリカを破るビッグパフォーマンスを見せた。
チームはスコットランドには敗れるも、サモア、アメリカにも勝って3勝1敗の好成績。惜しくもノックアウトステージには進めなかったけれど世界から称賛された。
そのアメリカ戦が終わって日本代表の全日程が終了した日、村田毅(当時NECグリーンロケッツ/FL)はぐでんぐでんに酔っ払った。
31人の大会スコッド外のバックアップメンバーに名を連ねていた。イングランド行きは叶わなかったけれど、負傷者が出れば招集される可能性もあったから、大会中も気を張ったまま過ごしていた。
ジャパンのみんなと合宿していた時のように、朝早くから体を動かし、禁酒もした。
しかしノックアウトステージ進出に届かないと決まり、自身のW杯も終わる。
その夜はテキーラを5杯、立て続けに飲んだ。3か月ぶりの飲酒の杯数は、その時の自身のキャップ数と同数だった。
村田は当時、こう語った。
「南アフリカ戦の中継を見ていると…純粋に応援できている自分もいたのですが、なんだか悔しい気持ちもあった。一緒にきつい練習をしてきた、家族同然の仲間とプレーできない状況が寂しかった」
勝利の瞬間いろんな感情が押し寄せた。うるっときて、みんなで苦難を乗り切ったことが報われた気がして、それから悔しくなった。
「ほんと、複雑でした」
2019年のW杯メンバーから漏れた梶村祐介(当時サントリーサンゴリアス/CTB)も、夢が叶わないと決まったときに泣いた。
同年夏、代表スコッドの網走合宿最終日前夜、宿舎でW杯メンバーの発表があった。
フロントローから順に、選ばれたメンバーの顔がスクリーンに映し出された。CTBの順番になるも梶村は下を向いたままだった。
約1か月前のパシフィック・ネーションズカップのメンバーから外れていたから覚悟はしていた。
その評価を覆そうと最後の最後まで戦うも、結果は変わらなかった。
それまで各年代の代表に選ばれてきて、落選は初めてだった。「そういうこともあり、分かってはいてもショックでした」と当時話した。
しばらく落ち込んだ。W杯直前まで、ジャパンや大会の情報を遮断した。
悶々とした気持ちが変わったのは開幕前日だったそうだ。日本代表の宿舎に、最後に落選した10人が呼ばれ、W杯メンバーを前にスピーチする機会が与えられた。
そのときW杯メンバーの澄んだ表情を見て、「そんなことをしている場合じゃないな、と思ったんです」という。
素直になれた。
直前まで何を話そうかと思っていたのに、自分の番になったら、スッと言葉が出た。「悔しい気持ちがありましたが、皆さんの顔を見て全力で応援しようと思いました」と吐露した。
「一緒に宮崎合宿を乗り越えたメンバーの代表として戦ってほしいと思えました」
大会前まで、「俺もできるけどな」、「選ばれたら(自分も)やれる」という思いがどこかにあったかもしれない。
しかし大会が始まり、ピッチに立つ選手たちのプレーを見たら、「自分はまだ、選ばれる選手ではなかった」と認めるしかなかった。
その梶村はいま、あらためて日本代表に復帰して2023年のW杯出場を狙っている。
3年前の悔しさは、自身とチームの進化を支えるエナジーだ。
ビール瓶をずらっと並べてジャパンの勝利を祝う日は、この10月か、来年のフランスW杯での成功の夜だろうか。
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。1989年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。