コラム 2022.05.27

【ラグリパWest】創部50周年の始祖。金鉉翼[大阪朝鮮高級学校ラグビー部/初代監督]

[ 鎮 勝也 ]
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【ラグリパWest】創部50周年の始祖。金鉉翼[大阪朝鮮高級学校ラグビー部/初代監督]
大阪朝鮮高級学校のラグビー部は今年創部50周年を迎える。この高校に創部した金鉉翼(きむ・ひょにっ)初代監督。古希をひとつ超えるが、パワフルさは監督時代と変わらない。現監督は7代目の文賢(むん・ひょん)さん。歴史はつながっている



 大阪朝鮮高級学校のラグビー部が創部50周年を迎えた。この高校に部を作ったのは金鉉翼(きむ・ひょにっ)。1972年のことである。

「チームが残ってくれていてうれしい。ここまで来るとは思いませんでした」
 第一級の功労者は丸い顔をくしゃくしゃにする。「アボジ」は古希をひとつ超えた。朝鮮語で父を意味する。

 アボジが基礎を作ったチームは冬の全国大会の出場を11回とする。最高位は3回ある4強。直近は前々回の100回大会。3勝して、優勝する桐蔭学園に12−40で敗れた。監督はアボジから数えると6代目の権晶秀(こん・じょんす)だった。

 朝鮮学校はその半島に祖先を持つ子供たちが、北朝鮮や韓国の国籍に関わらず、民族学を軸に勉強をする。校内では朝鮮語を使用。アボジはこの学校の卒業生であり、在日二世。その父は済州島から渡って来た。

「ラグビーを始めたのは大学1年の秋からやったね。それまでは柔道をやっとった」
 東京にある朝鮮大学校には1968年に入学した。同時に全源治(ちょん・うぉんち)が体育学の教官として着任し、ラグビー部を作る。前任校は九州朝鮮中高級学校だった。
「私たちの代は全先生に4年間を学んだ一期生やね」
 初代としての誇りがある。

 高校時代は柔道部。二段の強さ。天理や近畿など強豪大学から誘いはあった。
「朝鮮学校で先生になりたかった」
 白い道着から楕円球に移った理由のひとつが、岡野功や猪熊功と組んだことだ。
「全然違った。井の中の蛙やった」
 4年前の東京五輪で金メダルを取った柔道家たちと力の差を感じる。上京して講道館に腕試しに行った時だった。

 転向後はプロップを任される。体格は175センチ、80キロほど。初試合は近隣の武蔵野美術大。絵画や彫刻などを突き詰める通称「ムサビ」にもラグビー愛好者がいた。
「バンダナを頭に巻いていた」
 当時、流行したヒッピー姿の選手もいた。脱社会を旨とし、肩まである長い髪や奇抜な色合いの服装をしていた。

「負けました。だって、ルールがわからんねんもん。こっちは15人ぎりぎりで、しかも半数は私のような素人やった」
 点差は20ほど。1か月後の再戦では60点くらい入れて勝った。
「まあ、力は強い。体力はあったからね」

 朝鮮大学校は現在、関東リーグ戦の二部だが、当時はリーグに所属していなかった。
「3年の春、教育大とやりました。10点ちょっとくらいの差で負けたね」
 国立の東京教育大、今の筑波は全の母校である。福岡の明善から教員を目指して、この伝統校に入った。
「秋にもう1回やったら、逆転で勝った」
 教育大との試合は全にとって、その力を測ると同時に、自分が手塩にかけたチームを関係者に見てもらえる晴れがましさもあった。

 4年春は八幡山に行く。明治の監督、北島忠治が試合を組んでくれた。
「60点差くらいで負けました」
 全は北島に「もうひとハーフ」と頼み込む。そして、スタンドオフで出場する。

「ひとり、ふたりは抜くけど、最後は捕まる。そりゃ、当時の先生は35歳くらいでしたから。試合後、八幡山の風呂場で倒れて、救急車で運ばれました。勝負にかける先生のその姿、執念は今も心に残っています」

 アボジは卒業と同時にロシア語の教員として大阪に戻り、ラグビー部を作る。
「同期は私を含めて7人が出身の高級学校に帰り、部を作りました」
 亡き全が「朝鮮ラグビーの父」と呼ばれるゆえんである。

 アボジの在籍は5年と短かった。
「その後、仕事は10個以上はついたかな…」
 家族を養うため、建設業、造園や葬儀関係、パチンコ屋でも働いた。妻の愛子はサンダル工場に通い、家計を支えた。

 四半世紀ほど前、キムチの道に入る。
「昼は仕事をして、夜、韓国のおばあちゃんから作り方を教わりました」
 1年ほどかけて素材選びや漬け込み、味つけなどを習う。無給だった。そして、「キムチのかなおか」を開いた。店は近鉄布施駅を南に下ったところにある。

 店の冷蔵ケースには白菜やきゅうり、大根など定番のキムチが並ぶ。すべて自家製だ。
「チャンジャは日本一やと思ってる」
 タラの内臓を赤い漬け込み液に混ぜ込む。こりこりした食感に程よい辛さ。粒は大きい。北は北海道から南は九州沖縄まで焼き肉店などのプロから注文が入る。

 その間、母校は日本の大会に参加できるようになった。創部時は学校教育法の定める一条校ではないことが妨げになっていた。特例として1991年に大阪府総体(春季大会)、その3年後は全国大会予選にまで門戸は広がる。

 2003年、全国大会に初出場する。全国の朝鮮学校の先駆けになった。その83回大会では初戦で砺波に80−0、2回戦で正智深谷に24−40で敗れた。監督はアボジの教え子、金信男(きむ・しんなむ)。チームは呉英吉(お・よんぎる)、権とつながり、今は7代目の文賢(むん・ひょん)が監督をつとめる。高校は東大阪朝鮮中級学校と統合され、2018年度より大阪朝鮮中高級学校の名称に変わった。

 創部50周年の記念試合は6月26日、同じ東大阪にある近大で予定されている。高校は常翔学園、朝鮮大学校は近大と戦う。試合のあとは学校に戻り、焼き肉で周年を祝う。

 アボジは謙遜を交える。
「私の晩年は幸せかもしれません」
 エンジと白の段柄ジャージーは全国に知られた。子は3人、そして孫は8人。体を張って生き、その果実を得る。確実に「よき人生」と言えよう。不確かなことではない。


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