タックルマン石塚武生の青春日記⑪
日比野さん逝く。
共に秘めたる『荒ぶる魂』。
主将としての不安と安堵。
日比野弘さんが亡くなった。86歳だった。
1974(昭和49)年度、その日比野さんが早稲田ラグビー部の監督をつとめ、石塚武生さんがキャプテンとなった。当時、39歳の監督は22歳の主将をリスペクトしていた。日比野さんは、石塚さんについて、こう語っていた。
「あいつは、烈しかった。駄々っ子の、子どもみたいな情熱だったよ」
2021年9月、横浜の日比野さんの自宅でのことだ。
この連載を執筆することもあって、筆者は大先輩を訪ねたのだった。連載1回目の内容と重なるので、同じコメントの記述は避ける。実は、こんなことも言っていた。
「情熱は半端じゃない。(日本代表監督の時)ジャパンで使わなかったら、“僕を試合に出してください”って、泣きながら嘆願してきた。ジャパンがもう一度、飛躍するためには、おまえみたいなちっこいのがフランカーをやっていたらダメなんだと説明したんだ」
日比野さんとて苦渋の決断だっただろう。ソフトなムードにだまされがちだが、日比野さんも、石塚さん同様、情熱はすこぶる激しかった。“荒ぶる魂”を内に秘めていた。だから、169センチ、70キロのタックルマンをせがれのように愛した。
日比野さんは自著『早稲田ラグビー 荒ぶる魂の青春』(講談社)にこう、書いた。
〈石塚は生真面目な男である。この性格がド根性となって表れてくるのだ。毎晩、一日も欠かさず、自宅付近を走っていた。純真そうな顔に、いつも瞳がキラキラと輝いていた。ラガーマンとしての素質は、身体の外側にではなく、胸の内にあったのである〉
1974年度の合言葉は、『打倒!社会人』だった。前年度の最後、早大は日本選手権で社会人の覇者、リコーに敗れていた。春シーズンのスタート時、日比野監督は東伏見のラグビー寮の食堂でキックオフ・ミーティングを開き、最後、主将にこう、聞いた。
「石塚、打倒!社会人、やれるか?」
「やれます!」
張りのある石塚キャプテンの声が、静まり返っていた食堂いっぱいに響いた。
石塚さんは、1974年の5月、初めて日本代表の海外遠征(ニュージーランド)に参加した。早大の3年生のウイング藤原優(まさる)さん、5年目のFB植山信幸さんも一緒だった。経験は宝だ。大きな自信となった。ラグビー選手としての飛躍のきっかけとなった。
石塚さんは、色あせたラグビーノートにこう、書いている。
〈ワセダの主将としての自信にもつながった〉
遠征から帰国後、早大は春最後の練習試合として明大と対戦した。八幡山のグラウンドだった。ラグビーノートに〈この試合で、キャプテンとして、またチームとしても、大きなアクシデントがおこった〉と記した。
〈藤原がアキレスけん断裂のケガをしたのである。はたして、秋シーズンまで、復帰できるのだろうか。悪いことが続いた。2年生の南川(洋一郎)が内蔵の病気にかかり、これも当然、早大に気がかりな問題となった。
キャプテンとして、春シーズンは1カ月半もチームから離れ、そして、中心選手のふたりの戦列離脱者も出してしまった。少しばかりであるが、秋シーズンへの不安が走った〉
藤原さんに再び、電話をかけた。
車を運転しているのだろう。ハンズフリーで、小さな走行音も聞こえてくる。いつもの明るく、あたたかい声。アキレス腱断裂のことを聞けば、少し考えたあと、「ああ。ニュージーランド遠征でものすごく調子よかったんだ」と思い出してくれた。
「ま。調子いい時にけがをするんだよね。石塚さんには、八幡山から一緒に寮まで帰ってもらった気がする。電車で。最初は切断なんて思ってなくて、(東伏見駅の駅前の)“若みや”でビールを一杯飲んだら、すごく(足首が)はれたのを覚えている」
石塚さんはどんなキャプテンでしたか?
「ラグビーをすごく大切にしていたな。バックスのことはよくわからないから、僕らには技術的なことは何もいわない。ただ、グラウンドに立てば、プレーでチームをリードしていた。やはり、“グラウンドの外でもきちんとしないとゲームには勝てない”とよく言っていたな。私生活の行動もすべてラグビーにはねかえってくるからね」
この秋のシーズン、早大はエースを欠きながら、連戦連勝を続けた。
11月、石塚さんは日本代表のアジア競技大会メンバーとして、スリランカ遠征に参加した。決勝では、ホームのスリランカに44-6で圧勝した。早大では、植山さん、4年生のナンバー8、山下治さん(2009年没、享年56)も一緒だった。
11月23日の伝統の早慶戦、早大はその中心選手を欠きながらも、勝利を収めた。
12月7日の早明戦には、復帰した藤原さん、南川さんがトライをとるなどし、快勝した。
余談をいえば、この時代、大学ラグビーのほうが社会人ラグビーより人気があった。とくに早大。実力があって、スター選手もそろっていた。
日比野さんは過日、うれしそうに、こう冗談口調で漏らしていた。
「石塚は、実力以上に人気があったね。あの頃の勢いじゃ、試合で使わなかったら、投書がくるぐらいの人気だった」
ちなみに、海外の行事だったバレンタインデーは、「お菓子会社の宣伝」をきっかけとして、日本に広まった。
この1970年代、「女の子から男の子に告白できる日」として、まずは小中学校、高校、大学で盛り上がっていった。つづけて、OLたちもチョコレートを買うようになった。石塚さんは自著でこう、書いている。
〈私はバレンタインデーに80個ほどチョコレートをもらったことがある。ファンレターは郵便局から連日、袋に入って届けられ、私にも毎日4、5通は来ていた〉(『炎のタックルマン 石塚武生』(ベースボール・マガジン社)
話を戻す。石塚キャプテン率いる早大は大学選手権の決勝でも、明大を18-0で破り、2年連続大学日本一の座に就いた。
石塚さんはラグビーノートにこう、短く振り返っている。
〈うれしいというより、ホッとした気持ちだった〉
それはそうだ。まだ、目標の日本選手権が残っていた。『打倒!社会人』が。相手は、近鉄となった。日比野監督、石塚主将は、前年のリベンジに燃えていたことだろう。
情熱と仁徳の人、日比野さんの自著『早稲田ラグビー 荒ぶる魂の青春』の書き出しはこうだ。日本選手権に挑む早大の覇気が行間にほとばしる。
〈負けてもともとだって? 冗談じゃない。この試合に勝つために、おれ達の一年間はあったのだ〉
ふと、思う。
いま頃、日比野さんは石塚さんと、天国でラグビー談義に花を咲かせていることだろう、と。合掌。
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