コラム 2021.10.14

【コラム】ローデムパーク、宮崎、そして油津。

[ 田村一博 ]
【コラム】ローデムパーク、宮崎、そして油津。
宮崎でハードワークを続ける日本代表。(撮影/松本かおり)



 編集部の先輩、森本優子さんが定年退職を迎えた。
 大学を卒業してから38年、ラグビーマガジン一筋! おつかれさまでした。
 ありがとうございました。

 その森本さんがご自身の机の片付けをしているとき、昔のノートが発見された。取材時にかかった交通費を精算するため、経理部に提出する社内連絡帳だ。
 ちょうど私が入社した1989年当時のものだった。

 自分の字で、5月28日に「自宅→久喜=800円」、「久喜→ローデムパーク=650円」と書いたものがあった。
 すぐに思い出した。
 秩父宮で日本代表がスコットランド代表を28-24で倒した日だ。

 その日、私は当時の編集長からクラブ大会取材の指示を受け、現地へ向かった。
 ローデムパークは埼玉にあり、クラブチームの試合がよくおこなわれていた場所だ。大学時代、そこで何度も試合をした。

 グラウンド脇には小屋があり、テレビが置いてあった。32年前のその日は、秩父宮のテストマッチの模様が映し出されていた。
 ジャパンが勝利に近づくと、その周りにできた人だかりが大きくなっていた。そこにいるみんなで画面を見つめたのを覚えている。
 勝利の瞬間は沸いた。

 日本ラグビー史に大きく刻まれる一戦の現地取材はならなかった。
 しかし、残念な記憶にはなっていない。自分が駆けたこともあるグラウンドで、ラグビー愛好家の人たちと、不鮮明な画面を見つめた。その光景がなんだか好きだ。いい思い出だ。

 2015年ワールドカップの南アフリカ撃破の試合も現地にいなかった。締め切り間際だったため日本待機となり、テレビで戦況を見つめた。
 試合終了と同時に、世界各地の知人から祝福メールが届き、友人から電話があった。お互いに、「やったな、やったな」とだけ繰り返した。
 もちろん、ブライトンにいたかった。
 でも1989年のスコットランド戦同様、こちらも悔しさより、甘美な記憶として残っている。

 2021年10月23日、日本代表がオーストラリア代表と戦う。
 2年ぶりの国内テストマッチだ。ファンは、心震わせる試合、サクラのジャージーが勝利するシーンを待っているだろう。
 その準備の進み具合を見るため、報道陣へ練習が公開された10月12日、強化キャンプを実施する宮崎へ向かった。

 当日は雨の予報ははずれ、強い日差しが降り注いでいた。全員から汗が吹き出ていた。
 強度の高いゲーム形式の練習が毎日繰り返されているようだ。選手たちの体がシャープになっていた。

 ジャパンはエディー・ジョーンズ ヘッドコーチ時代から宮崎で猛練習を積んでチームの結束を高めてきた。
 選手たちは、宮崎の地をホームと感じている。自分たちはここで強くなる。そう信じ切れていることが、好結果を呼んでいるように思う。

 今回の宮崎行きは、ジャパンの取材以外にも目的があった。県北部、日向市にある富島中学ラグビー部を訪ねた。今夏の九州中学校大会でも優勝したチームだ。
 同部を指導する緒方善弘先生といろいろ話した際、懐かしい地名を聞いた。先生は以前、県南部の日南市にある油津中学校で教壇に立っていたそうだ。

 私の母校だ。
 父の転勤により、小学校4年から中学3年までそこで暮らした。
 緒方先生から母校の名前を聞いたことで、南に向かいたくなった。JR日南線が9月の台風で不通になったままと知り、バスで油津に向かうことにした。

 当時はラグビーにまったく興味がなかった。
 それでもテレビで見た1980年1月7日の花園決勝、目黒×國學院久我山の激闘には感動した。日南農林高校の外山康弘(のちに日新製鋼)という選手が高校日本代表に選ばれたことも、地元ではニュースになっていた。

 私が広島ファンなのは、カープが油津でキャンプを張っていたからだ。毎年2月、チームは町のあちこちのホテル、旅館に分宿していた。学校の行き帰りに選手たちとすれ違い、休みの日はキャンプ期間中のホーム、天福球場に足を運んだ。
 練習後にサインをもらい、選手に「のっけて」と言われ、ホテルまで自転車のうしろに乗せたこともある。
 カープを好きになって当然の環境だった。

 今回、母校に足を運んだ。懐かしい商店街を歩いた。
 その途中、幼少期からお世話になっていたお寿司屋さんのおじさんを訪ね、生花店を営む同級生と会った。

 いまどうしてるの?
 ラグビーマガジンの編集部で働いているよ。
 そんなやりとりはあっても、ラグビーに関しては話が続かない。2019年ワールドカップの熱狂を経ても、全国の隅々にまで楕円球の魅力を届けるのは難しいなあ。

 少年時代、カープに入団することを夢見てサインの練習をしていた。将来の自分がラグビーに関わるなんて想像していなかった。
 ローデムパークに向かう時、ジャパンが勝つとは本気で思っていなかった。
 2015年もラストシーンでカーン・ヘスケスがインゴールに入るまで、逆転劇が現実になるとは信じられなかった。
 想定外のことが起こるから、人生もラグビーも飽きない。

 一冊の古いノートを見てから約1週間、過去を思い出すことが多かった。
 油津では小6の時に北山先生に、中3の時に山口先生に、「将来は先生になれ」と言われたことがよみがえった。
 愉快に生きてきたけれど、先生にもなりたかったな。そうなっていたら、ラグビーの名勝負とは無縁だったかな。
 人間万事塞翁が馬、だな。


【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。89年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。


1989年当時の交通費ノート。私の上の「村上」は現在ラグビージャーナリストの村上晃一さん


PICK UP