タックルマン石塚武生の青春日記⑤
忘れがたい汚点。
たった1日の集団脱走。
酔いつぶれたリヤカーの思い出。
もう半世紀前の話である。1971(昭和46)年の春シーズンの終盤だった。早稲田大学1年生の石塚武生さんはラグビー部から同期と一緒に〝集団脱走〟した。部室掃除やボール磨き、グラウンド整備などのシゴトと〝しぼり〟がイヤになったからだった。
「われわれ1年生にとって忘れがたい汚点を残した」。石塚さんはラグビーノートにそう、書いた。痛恨の出来事だったのだろう。
「集団心理とは怖いものだ」と、経緯を書き綴っている。この部分は他の媒体(Yahoo!)に既に書いたので、重複する説明は省く。
当時の東伏見の早大グラウンドは土だった。激しい雨の中、慶応大学と春の練習試合がおこなわれた。グラウンドはぐちゃぐちゃとなった。休日明け、グラウンド整備をしようとしたら、かっちんかっちんで、もう手が付けられないデコボコ状態となっていた。
そのままだと、上級生の怒りを買って、間違いなく〝しぼり〟となる。中国古典のことわざ通り、『三十六計逃げるに如かず』しかない。逃げるが勝ちなのだ。
練習直前、1年生は着の身着のままで脱走した。バスで吉祥寺に出て、電車で向ヶ丘遊園へ。途中、スーパーマーケットでアツアツのコロッケとさつま揚げを買って、胃袋の動揺をしずめた。
再び電車で渋谷に移動し、街頭で配っていたコーヒーの割引券をもらって喫茶店に入った。ほろ苦いストレートコーヒーを飲みながら対策を練った。
結局、夜、石塚さんが逃げた1年生代表としてラグビー部寮に電話をかけ、益田清キャプテンに謝った。理由を説明した。懐の深いキャプテンはこう、言った。「戻ってこい。すべて水に流すから、明日から、がんばれ」と。
それから50年の歳月が経った。10月某日。石塚さんの同期だったスタンドオフの猪又昭さんに電話で聞けば、69歳は「そうそう。逃げた、逃げた」と愉快そうに漏らした。もう記憶はぼんやりしている。
「詳しくは思い出さんね、もう。結局、すぐ、部に戻ったもんね。ラグビー部の(シゴトの)習慣を変えようとした。〝よし、やっちゃろう〟って。上級生にショックを与えてやろうということだったと思うよ」
もうひとり、石塚さんたちの一学年上の浜野政宏さんの自宅にも電話をかけた。留守電だった。律儀な先輩だ。数分後にはコールバックをもらった。
「おっ、ちょうど、(ラグビーリパブリックの)石塚の原稿を楽しく読んだところだったよ」と声を弾ませた。
浜野さんは、筆者が大学3年生のとき、ラグビー部のFWコーチをしていただいた。大西鉄之祐先生が監督をされた年だ。豪放磊落。その明るいキャラに何度、救われたことか。
早大に入ってナンバー8から「6つ落として」2番のフッカーに転向した。全日本学生代表となり、卒業後、博報堂で広告業界をブイブイ言わせた。モットーが「楽しく生きる」。
ついでにいえば、ニックネームが「ゴリ」だった。野性的な面持ちゆえか、ゴリラのゴリ。当時の『早稲田のゴリラ三兄弟』は、長男が浜野さん、次男が石塚さんと同期、のちに日本代表となるナンバー8の山下治さん(2009年没、享年56)。三男が、山下さんの一学年下、日本代表で大活躍することになるバックスの藤原優さん。
早稲田ラグビー部のお祭り、『北風祭』では、ゴリラ三兄弟は余興として、上半身裸になって「キングコング」の歌をうたった。
「ウッホ ウホウホ ウッホッホッ♪てさ。大きな山を、 ひとまたぎ、キングコングがやって来る♪。こわくなんかないんだよ、キングコングは友達さ♪ってね。大うけだよ」
石塚さんたち1年生の脱走話を振れば、70歳の浜野さんは「山下が声をかけてもらえなかったんだよ」と言って、電話口でプッと噴き出した。
「その日、部室にいったら、だれもいなくてさ。いや、山下だけがいた。〝どうしたの〟と聞いたら、〝みんな、逃げたんです〟って。〝おまえは声をかけてもらえなかったのか〟と言ったら、無言で、もうしょんぼりしてさ。ははは」
つまりは、山下さんはひとり、逃げ遅れたのである。その瞬間、浜野さんは〝まずい〟と思ったそうだ。1年生がいなくなれば、2年生が〝シゴト〟を代わってやらなければいけなくなる。「すぐ連れ戻しにいこうってなったよ」と笑った。
逃げた1年生と同じ高校の出身者が捜索にあたる。2年生がそれぞれ1年生の自宅に電話をかけた。いない。ただ、それほど驚きはなかった。
「だって、1年生がきついのは知っているからさ。シゴトでしょ、〝しぼり〟でしょ。おれたちだって、ラグビー部をやめてもしかたないと思っていたもの。逃げたとき、〝よく、ふんぎったな〟といった感じだった」
結局、逃亡した日の深夜に1年生はラグビー部寮に戻り、翌日から練習には復帰した。浜野さんが述懐する。「シゴトをしなくて済むからホッとしたよ」と。
「翌日には、1年生が何食わぬ顔して練習していてさ。ワセダのラグビー部のいいところはさ、ネチネチしたところがないこと。終わったことを、しつこく、言わないんだ。制裁みたいなことは皆無。だれも怒りもしなかった」
もっとも、この脱走事件で少し変わったこともあった。再び、石塚さん同期の猪又さんだ。福岡在住。博多弁のイントネーションで振り返った。
「たった一日の抵抗だった。でも、しぼりが変わったね。練習の内容が減ったのは間違いない。陰湿な感じがなくなって、明るいしぼりになった。ホントたい。力をつけるための、健全なしぼりになったとよ」
これも青春だ。古き良き時代だった。余談ながら、浜野さんたちは青春を謳歌していた。
東伏見の駅前には当時、『メキシコ』という地味で小規模なパチンコ店、グラウンド方向の角には赤提灯に「ホルモン」と黒字で大書されたすすけた焼き鳥店があった。
もう時効だろう。当時、大学生は未成年でも酒をたしなんでいた。ラグビーの練習を終え、白いTシャツ、黒の短パン姿でラグビー寮にとぼとぼと歩いて帰る。その距離、ざっと200メートルといったところか。
二年生は途中のホルモンでちょっとひと休みだ。瓶ビールは値段が高い。記憶では、熱燗の日本酒(二級酒)のコップ酒が一杯70円だった。
浜野さんが懐かしそうに漏らした。
「熱いコップ酒を帰り道でちょっとひっかけるのが楽しくてさ。おじちゃんが酒をどぼどぼついで、コップをのせるガラスの皿まであふれさせてくれる。焼き鳥を頼めば、おばちゃんが何本か多めに焼いてくれたんだ。ワセダはみんなに応援されていたよ」
石塚さんは、どちらかといえば、酒は下戸だった。ゴリ先輩は「そうそうそう」と言って、こっそり教えてくれた。
「石塚をリヤカーで運んだことがあるなあ」
春のシーズンが終わると、東伏見のグランド角のグリーンハウスという合宿所でラグビー部の「納会」が開かれた。
恒例の飲み会だ。1年生の石塚さんは日本酒をしこたま飲まされてつぶれ、浜野さんがこげ茶の古いリヤカーでよれよれの後輩をラグビー部寮まで運んだそうだ。
人はみな、聖人君子ではありえない。のちの燃えるタックルマンとて、ただの若者だったのである。
タックルマン石塚武生の青春日記はこちらから読めます。