コラム 2021.09.28

タックルマン石塚武生の青春日記③

[ 松瀬 学 ]
タックルマン石塚武生の青春日記③
早大下級生時代、練習前、スパイクを履く石塚武生さん(石塚家から提供)



早大ラグビー部入部。
ラグビー一色、息が詰まる1年生の日々。
着替える余力すらなし。

 1971(昭和46)年の3月、早稲田ラグビーの聖地、東伏見に春がやってきた。幾多のラガーマンの汗と涙がしみ込んだ土のグラウンドに春風が吹き、火山灰土を噴き上げる。
 この春、18歳の石塚武生さんは早稲田大学教育学部教育学科体育学専修に進学、たった1年のラグビー経験にもかかわらず、体育会のラグビー蹴球部に入った。狛江の自宅からラグビー部寮に布団と着替えのみの荷物を送り、ひとりで入寮した。

 古びたラグビーノートをめくると、<怖いもの知らずであった>とある。
 <正直言って、早稲田ラグビーをそれほど詳しく知っていたわけではない。サッカー部員だった冬、ラグビー部の新人戦に駆り出されたのをきっかけに、久我山高校3年からラグビーを始めた僕にとって、ラグビーのラの字を知り始めた頃である。まだウイングだった。入部した時は、とにかく不安の一色であった>

 常に大学日本一を目指すクラブの練習は熾烈を極めた。部室の壁には『緊張。集中。日本一の練習に挑む』との黒い墨字があった。吹きっさらしのグラウンドを、練習用の白と黒のどろんこジャージが疾駆し、砂塵を蹴散らす。記憶は、肌に痛い砂粒だ。
 疲労困憊、練習のあとには服を着替える力もほとんど残っていなかった。石塚さんはグラウンドを離れると、体育学専修、通称「タイセン」の学生が着るエンジ色の上下のトレーニングウェアで通した。

<タイセンのウェアがパジャマであり、普段着であった。少し汚れていても、平気で着ていた。下着を着替えるのは、2~3日に1回くらいだった。練習から上がって、食事をすませて、与えられた寮のそうじをやって、自分の部屋に落ち着くのが夜8時、すぐベッドにもぐり込んでしまうのが日課だった。番長(2人部屋の先輩)から「もう寝ているのか。早いなあ」と言われたのをよく覚えている。ゾッとするような、息が詰まるような生活をしていたからオモシロい。
 こんな調子で、不潔なモノを身につけながら、朝起きてから夜寝るまでラグビー一色だった。本職である学業といえば、いやいやながら、体育実技の授業に出て、ただ出席のために講義を聞きにいったものだ>

 キタナイなどと言うなかれ。これも青春だ。石塚さんの1年生の年度は、<全部員が50名ほど、新人は15名ほど>とラグビーノートには記されている。同期には、のちに日本代表となるナンバーエイトの好漢、山下治さん(2009年没、享年56)がいた。

 筆者の母校である福岡・修猷館高校から早大に進んだスタンドオフ、猪又昭さんも石塚さんの同期だった。9月某日。福岡市早良区の操体法研究所所長を務める猪又さんに電話をかけた。いま69歳。早大を卒業後、海運会社に就職し、海運ラグビーリーグでプレーした。30代半ばに退職して、治療師に転じた。「ご無沙汰しています」と言えば、「お〜、久しぶりやね。なんや」と張りのある声が返ってきた。

 13回忌を迎えた石塚さんのことで、と事情を説明し、ちょうど50年前のことを聞いた。ワセダの1年生の時、練習がしんどくて着替える力さえ残っておらず、1週間ぐらい、同じ服を着ていたそうですね、と。
「あの頃は、みんな、そうよ。そういう時代だから。練習着のジャージも服も1週間ぐらい、着っぱなしだった。もちろん、ジャージは洗ってはいたよ」

 1971年とは、どんな時代だったのか。高度経済成長期の終盤にあたり、光化学スモッグなどの公害問題が表面化。水俣病を世界に伝えた米国の伝説の報道写真家、ユージン・スミス氏が来日した年だった。

 またネット検索すれば、「日清食品がカップ麺のカップヌードルを発売」「マクドナルド日本1号店が銀座にオープン」「インベーダーゲーム大流行」などが出てきた。
 ヒット曲は小柳ルミ子の『わたしの城下町』」、尾崎紀世彦の『また逢う日まで』、ソルティー・シュガーの『走れコウタロー』。競馬に麻雀、パチンコ。酒はホッピー、酎ハイ。バンカラな気風が残り、大学生は総じて貧乏だった。

 一方、早稲田大学ラグビー部は黄金時代を迎えていた。関東大学対抗戦で11連勝をつづけ、前年度は大学選手権決勝で日本体育大学を14-9で破って大学日本一に就いた。
 石塚さんの思い出を聞けば、猪又さんは「偏屈モンだもんね、あいつも」と笑った。
「ストイックだった。孤高のイメージだよ。見た通りのタイプだった。ガン付きが鋭いからね。とにかく、自分にも周りにも妥協しない男だった」

 ワセダ1年生の石塚さんはまだ、ラガーマンとして未熟だった。そのスピードは大学のウイングとしては通用しなかった。己の限界を知り、悩んでいたようだ。ただ、比類なき負けじ魂があった。そう、荒ぶる魂が。ラグビーノートにはこう、書いてある。
 <負けてたまるか。やれるだけのことを、がむしゃらにやってみよう。それでもダメなら仕方がない。おれはそう、腹をくくったのだ>

早大時代の石塚武生さん、東伏見の早大ラグビー部寮の屋上で布団干し(石塚家からの提供)

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