タックルマン石塚武生の青春日記①
駄々っ子のような情熱…。
ラグビー・スピリットを体現した
ヒーローへの哀悼と追憶。
もう12年も経つのか。〝炎のタックルマン〟こと、ラグビーの石塚武生さんが天国に召されて。2009年8月6日だった。享年57。
かつての早稲田大学、日本代表の背番号7。“荒ぶる魂”の権化。なにより小柄なからだには闘気が満ちていた。
13回忌に際し、縁あり、僕は石塚さんが遺したラグビー日記やノートを預かることになった。もちろん、石塚さんの遺族の許可も得ている。実直そうな文字を追えば、ラグビーにまっすぐに生きた息遣いと情熱が伝わってきた。そう感じる。
ラグビーとは人間と人間が全人格を競うスポーツである。ラグビーのコアバリューは、インテグリティ(品位)、ソリダリティ(結束)、ディシプリン(規律)、リスペクト(尊重)、そしてパッション(情熱)。つまるところ、石塚さんはラグビー・スピリットを体現した存在だった。だから、混沌とした今、改めてラグビーファンに伝えたいのだ。
記憶をたどる。12年前の夏。石塚さんは、その前日まで長野・菅平高原での高校生の合宿指導に携わっていた。なのに、山から降りた翌日、茨城県土浦のマンションの自室で帰らぬ人となった。死因は「突然死症候群」。
8月9日。告別式が、実家そばの東京・狛江市の泉龍寺別院で営まれた。亡き骸には早稲田のアカクロジャージがかけられ、出棺時には僕ら早稲田OBがラグビー部歌「荒ぶる」を涙声でうたった。たしか、故人の親友だった慶応大学OBの上田昭夫さん(2015年没、享年62)も泣いていた。
弔辞を読まれたのは、石塚さんが1974(昭和49)年度に早大主将を務めた時に監督だった日比野弘さんだった。石塚さんが日本代表の時には代表監督も務められた。当時の新聞記事をネットで検索する。あった。〈日比野弘・元日本協会会長代行は弔辞で「君はすべての情熱をラグビーにささげてくれた。ありがとう」と“炎のタックルマン”に別れを告げた〉(スポーツニッポン新聞2009年8月10日付)と。
時間を今に戻す。9月某日。雨の中、横浜市の日比野さんのお宅を訪ねた。いつものごとく、敬愛する86歳の大先輩は柔和な笑顔で迎えてくれた。石塚さんのことをラグビーマガジンWEBに連載することになった経緯を説明すると、日比野さんは目元を緩ませた。
「あいつは、烈しかったよ」と、懐かしそうに漏らした。言葉にユーモアと滋味がにじむ。
「駄々っ子の、子どものような情熱だった。ラグビーの。すごいものだ。そうだ。あいつの得意のセリフは、“がまん、がまん”だったね。試合中、“ジャパン、がまん”“早稲田、がまん”って。そして、人気もあった。試合で使わなかったら、抗議の投書がきそうなくらいの人気だったね」
苦しい時こそ、ラガーマンは真価が問われる。我慢できるかどうか。からだを張れるかどうか。一歩前に出られるかどうか。
石塚さんは東京・國學院久我山高3年からラグビーを始めた。サッカー部に在籍していたところ、ラグビー部の中村誠監督に誘われたからだった。自分のことを、〈鈍足ウイングだった〉とノートには記している。
たった1年のラグビー経験で早大ラグビー部に入った。春シーズンが終わると、ウイングからフランカーに転向した。自分の経験でいえば、石塚さんの苦労や努力の質量は筆舌に尽くしがたいものがある。それなのに、大学2年でアカクロを着た。
色あせたラグビー日記を傷つけないよう恐る恐るめくっていく。ああラグビーが大好きだったのだ、と感じる。練習に関するこんな記述があった。
〈自分にとっての楽しいラグビーとは、自分をいじめることによって強くなることだった。ラグビーはつらい。苦しい。ここでちょっとラクをしたいと思うこともある。でも、僕は自分に負けたくないから、息を切らしながらでも一生懸命がんばるのだ。
(中略)
きょう一日、あす一日、がんばれば何かが変わるという時がある。そこでやめてしまうと、ああ、きつかっただけで終わってしまう。でも、そこでがんばる。もっと続ける。もっと練習する。そうすれば、いいことがある。きつい練習も、それを忘れるくらいの楽しい思い出に変わる。試合で。それで全部、解消だ〉
かつて、炎のタックルマンがいた。僕らのヒーロー、石塚武生さんがいた。
連載は15回の予定。さあ、故人の遺したラグビー日記のページをめくっていこう。ご一緒に。
タックルマン石塚武生の青春日記、続編はこちらから読めます。