【ラグリパWest】新しい場所、新しい挑戦。大向将也 [中部大学春日丘高校ラグビー部コーチ]
「安藤先生は否定をしないところですね。新しいものを進んで採り入れる」
安藤が監督に就任する前の全国大会最高位は3回戦。それを2ステージ引き上げ、4強とする。NTTドコモのアシスタントコーチである竹内克をスポットで指導に招くなど、進取の気概に富む。
「岩出先生は踏み出す力ですね。失敗したら、やってしまった、ではありません。よし、じゃあこっち、と新しい引き出しがある。そして、選手のことをすごく把握しています。トップダウンと思われがちですが、練習中もその前後も常に選手と話をしています」
第2案、第3案の大切さを知る。そのコミュニケーションの取り方も勉強になった。
「宮地先生はよい意味で周りを巻き込みます。教員とクラブをやっていれば家族の犠牲はつきもの、という考え方ではありません」
宮地は自宅を寮にする。部員が増えると近くのマンションの4部屋を借り、第2寮とする。大向は寮監として、家族とそこに住まわせる。食事は隣接する喫茶店「シルバー」が朝、晩、補食のごはんを用意してくれる。
宮地の自宅では家族と部員が触れ合う。親近感が高まる。マンションの家主にとっては、空き部屋がふさがる。喫茶店は定収入が計算できる。大向の家族を含め、まわりが立ちゆくように常に考えている。
大向は石見智翠館の前校名、江の川(ごうのかわ)に入学後、競技を始めた。
「ラグビーをするために行きました」
父の謙二は大阪体育大のOBで島根の教員だった。当時、監督だった梅本勝(現・倉敷高)とは同窓になる。1年からバックスリーで公式戦出場。3年時の79回大会(1999年度)は、3回戦に進出。17−26で大阪工大高(現・常翔学園)に敗れた。
大学は父の後輩になる。ここでも1年からバックスリーで黒白のジャージーを着る。当時の監督は坂田好弘。WTBとして日本代表キャップ16を持つ指導者が、170センチそこそこの新人を起用したことは、大向のスピードを含めた能力の高さを示している。
2年時の38回大学選手権は準優勝する早稲田を54−58と4点差まで追いつめる。卒業後はワールドに入った。現役生活は5年で終え、社業に専念する。3年後、安藤から帰郷の打診がある。母校では保健・体育教員とラグビー部の部長などをつとめた。
春日丘はこの4月、1年生32人が入部した。1965年(昭和40)年の創部以来、57年目で最多。部員は74人になったが、3年生は14人と少ない。先月の22回選抜大会では、2回戦で佐賀工に10−14と惜敗した。
大向の目標は決まっている。
「チームを日本一にしたい。宮地先生の胴上げはマストです」
頂点に立つためにも、少ない最上級生の技量を上げ、チーム全体の結束を図りたい。
大学同期で、ハンドボール部だった妻は、「ついて行く」と背中を押してくれた。
「彼女がいなければ、今の僕はありません」
学内で一目ぼれして、猛アタックをかけた。その甲斐があった。大向は家族との安らぎを燃料に、春日丘のブースターとなる。そして、最後の急こう配を押し上げる。