【コラム】あるスクラムハーフの引退。
こんな人がいるからラグビーが好きだ。
いつも大声を出して元気。体を張り続ける武闘派スクラムハーフ。
選手評なら、そう書ける。
でも、普段からそんな人だと思い込み、人物評を書いていたら間違えていた。
女子ラグビー、パールズ(三重/MIE WOMEN’S RUGBY FOOTBALL CLUB PEARLS)の原仁以奈(はら・にいな)が引退した。
最後のプレーは2月21日の全国女子ラグビー選手権大会。関西代表として出場したパールズは、関東代表のモーニングベアーズを41-10で破る。
原は9番を背負い80分プレーした。
当日はトップリーグの開幕節と重なっていたため、会場の瑞穂ラグビー場に行くことはできなかった。
後日、配信されている映像を見た。いつものように、よく走り、タックルし、元気だ。数日後、オンラインでの取材に応じてもらった。
オフィスでの9番は穏やかだった。「会社の人たちにも、ラグビーをする姿を見てびっくりした、と言われます。大声を出していて、会社にいるときからは想像できない、って」と笑う。
スクラムハーフはいつも元気で、チームの先頭に立ち続けないといけない。そう思っているから、ラグビーのときは意識的に大きな声を出してきた。
本当は引っ込み思案で、自分のことを話すのも得意ではないと言う。
いつもは静かで穏やかな人が、ラグビーになるとハードタックルをする。いつも賑やかで、ふざけてばかりのお調子者が試合になると黙々と下働きをする。
そんなことが多々あるからラグビーが好きだ。
ラグビーになると、嘘のないその人が見られる。両方とも、本当のその人。
どちらも正しいと思う。
現在28歳の原仁以奈は、10歳のとき、幼馴染の男の子がラグビーを始めたのに合わせ、草ヶ江ヤングラガーズ(福岡)に入った。
中学まで同クラブでプレーを続け、高校は千葉の市立船橋高校へ進む。当時の福岡ではまだ、高校のラグビー部で男子と一緒に練習ができるところがほとんどなかったからだ。女子ラグビーの環境が整っていた市船に活動の場を求めた。
大学は拓大へ進み、男子部員と一緒に練習をした。
2011年、高校3年時に香港セブンズへ出場した女子セブンズ日本代表に選ばれるも、その後はなかなか同代表に入ることはできなかった。
15人制代表に選ばれ、テストマッチメンバーとなりながらも試合前日に鎖骨を骨折したこともある。
大学在学時から『Rugirl-7』に在籍し、同クラブの活動が終了する2017年までプレー。翌年からパールズに加わった。
太陽生命ウィメンズセブンズシリーズが始まったのが2014年。それまでは、年間におこなえる試合数は本当に限られた数だった。
その時代も知っているから、ラグビーができることの幸せを噛み締めてプレーを続けてきた。
常にもっとうまくなりたいと思ってきた。一方で、代表、代表と、そこに固執しなかったから長くラグビーを楽しめた。
FBでもプレーする。セブンズではスイーパー役で最後尾を守る。150センチと小柄な体躯が、代表定着といかなかった原因のひとつではあったのかもしれない。
ひとつのパス、ひとつのタックルの精度を高め、誰よりも走り回ったのは、小柄な自分が大きな選手たちに負けないためだ。
ただ、それは代表入りのためでなく、所属チームに貢献したいからであり、仲間たちと目指すゴールに向かうためだ。
「代表は、私がラグビーをする目的ではありませんでした。仲間といっぱい練習して、チームが勝って、その結果、もし呼んでもらえたらいいな、と。ご褒美だと思っていました」
引退は、突発性難聴に悩まされているから決めた。聴力に障害が出たり、高熱が出る時がある。
「そういう状態なので、パフォーマンスを向上させ続けるのが難しくなりました。(チームや会社に)サポートを受けてプレーしている立場として、意地で続けるのは違うのかな、と思って(引退を)決めました」
昨年末に決断した。関西大会は中止となり、先の全国女子選手権の実施も確定していなかったから、何も試合がないまま、静かに引退する可能性もあった。
「だから、ああいう試合がおこなわれて幸せだな、と。最後にチームメートとプレーできてうれしかった。今シーズン初めての試合で、みんなあれだけのパフォーマンスがやれて凄いです」
4月からは鍼灸マッサージを学ぶため、東京で専門学校に通う(4年間)。アスレチックトレーナーの資格も取るつもりだ。
自身もケガに苦しんだ。アスリートや若い世代を傷害予防の分野で支えたい。
「多くの人たちがラグビーライフを、長く、エンジョイできるようになれたらいいですね。そのサポートができれば」
大学卒業と同時に就職し、これまでプレーヤー人生を支えてくれた会社(株式会社丹青社)でこれからも働く。
午前中に通学し、午後からはオフィスへ。感謝すべき環境を提供してくれるのは、これまでの姿勢を高く評価してくれているからだろう。
ラグビーの魅力を「出会い」と言う。
人との出会い。ラグビーをやっていなかったら三重に住むことはなかった。引退を決めてからの日々は、本当の意味で一日一日を大事に過ごすということをあらためて教えてくれた。
ラストゲームが終わった時の充実と寂しさ。胴上げのとき見上げた空の青さは、一生忘れないと思う。
「ラグビーは世界を広げてくれました」
現役生活を終えても、「人とのつながりは変わりなく続きます」。
何も終わらない。
新しい扉を開くときが来ただけだ。
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。1989年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。