【ラグリパWest】ワールドカップ参加の吉報を待つ。久保修平 日本協会A級レフリー
競技を始めたのは福岡・筑紫高に入学後。
「夕陽を浴びてランパスしている姿がキラキラ輝いていて格好よかったんです」
ポジションはスクラムハーフ。卒業後は岡山にある川崎医療福祉大に進んだ。
「中高生の運動指導やケガとスポーツのかかわりなどに興味がありました」
4年間で教員免許は中高の保健・体育一種、特別支援学校二種を取得する。
レフリーを始めたのは大学2年から。
2005年秋の岡山国体に向け、県内で審判団の養成が必要になった。
「コーチでラグビーを続けるためにはプレー経験が必要になります。でも、レフリーにはそれがいらなかったのも大きかったです」
楕円球界にのめり込んでいた。
国体後、教員採用試験に合格した大阪に引っ越す。2006年4月から府立の八尾支援学校で先生をしながら、レフリーを続ける。
強烈な敗戦の中、久保のうまさを思い知らされた男がいる。近畿大ディレクターの神本健司だ。
2008年の入替戦で大阪産業大に17-24と敗北。関西Bリーグへの降格が決まる。
「負けたチームはその怒りをどこかにぶつけたいものなんです。その対象としてレフリーになることが多い。でもあの時、彼には何も言えませんでした」
敗者からグウの音も出ない完ぺきなレフリングだった。近畿大は翌年の入替戦で69-10と雪辱。1年でAリーグに復帰している。
久保は2008年にA1、2013年にAに昇格する。国内で行われる国際試合を含むすべての試合をレフリーとして担当できるようになる。以後、降格は1度もない。
同時に2014年4月から所属を日本協会に変えた。32歳でプロを選択する。
休日と公休を全部消化しても依頼をさばききれない。道を究めたい思いも強まる。
「プロはよかったらいい、悪かったら悪い。公務員で切られるのはよっぽどのことをしない限りないですけど、僕はあります」
人生の大きな勝負だったが、家族、教員の妻と娘2人の理解を得る。
笛の質を落とさないためのトレーニングは週5回ほど。グラウンドが3、ジムが2の配分だ。1回2時間はかける。
兵庫・尼崎の渡辺接骨院に勤務する山本大輔にトレーナーとしてついてもらう。
「最低でもこれくらいしないと、ついていけません。ラグビー界もプロ化が進み、選手のレベルが上がってきていますから」
山本への報酬は年俸から支払っている。
試合を重ねて得た哲学がある。
「正しいコンテストをさせる、ということです。継続だけではなく、争奪もラグビーの大事なパーツです。そこで反則じゃないものを反則としてとってはいけません。ラグビーの魅力がなくなります。そうしないためにはよく見ること。そして先入観を持たない。連続攻撃があれば、守っている側が反則をすると思いがちですよね。でもそれは違います。しっかり見ることが大切なのです」
W杯審判団の一員に選ばれれば、サポートに回る心づもりはできている。
「担当するレフリーがどういう笛を吹くか、ということを事前に調べて、特性を引き出せるように協力していきたいですね」
過去のW杯8大会で審判団に参加した日本人は3人のみ。レフリーは1995年の斉藤直樹。ARは1991年の八木宏器と1999年の岩下眞一だけだ。
久保は、3月20日に打ち上げの日本代表の沖縄合宿にも監督のジェイミー・ジョセフの意向で参加した。試合形式練習やスクラム、ラインアウトで実戦勘を養った。
その信条は「チャレンジ」。
3年たっても不惑。
まだまだ、挑める。