「私は、ぶれない」 日本ラグビーへの恩返し(2)
オツコロ カトニ(~2018年度クボタスピアーズ)
「私は寮生だったんですよ。学校の仲間と寝起きをともにして3年間、生活しました。学校はトゥポウ・カレッジ、過去にもラグビーの国代表選手をたくさん出しています。日本にも卒業生は多い。起床、食事、就寝、すべてが決められていて、とても厳しい生活でした。それが、いまだに染みついている。若い時に身につけた基本、忘れないようにしているだけです」
親の目から解放された子供達はたいてい、悪さをする、と笑う。カトニはどちらかというと、家族の顔を思い浮かべながら生活した。「ぶれたら、あかんと思っていました。親が見ていようが見ていまいが、ほんとの姿は、自分しか知らない。自分は騙せない」
ベテランになっても練習量は人一倍。クラブハウスのトレーニング室で一人バーベルに向かう姿には、寮で頑なに誇りを貫く少年の背中が重なるようだ。
プレーだけではなく、プロ選手として地域貢献活動にも積極的に関わってきた。スピアーズのU15アカデミーの活動やチームのイベントなどで、小中学生の指導を月に何度も担当している。ここでも全身全霊を傾ける姿勢は徹底されていた。カトニは、実績と座学の基準をクリアし、日本協会トップコーチ資格を取得、維持している。
「単に自分の経験で教えるのと、教え方を勉強して取り組むのでは、子供達に大きな違いが出ます。経験に頼るとどうしても自分のラグビーと比べる、怒る方が先になります。勉強すれば、伝え方にバリエーションを持つことができる。ラグビーってこんなに楽しいのか! 子供がそう思ってくれれば、スピアーズのイメージも、クボタのイメージも良いものになる」
アカデミーや地域イベントに行き来する電車で、その日のセッションをイメージする。帰りの車中では、子供達や付き添いの家族たちがどんな気持ちで帰っていったかを想像する。
「だいたい、うまくいっていると感じることが多い。コツは、子供に教える時は自分自身が子供になること。またカトニと遊びたい! そう思ってもらえたらいい」
その先には、トップレベルのコーチングの道も見据えているという。もし、競技レベルの現場からオファーがあったらどうする? 間を置いて答えた。
「それは、受けなければならないでしょう。そして全力であたらなければ。ただ、キャリアにつながるからラッキー、という話ではない。それは日本ラグビーへの恩返しだから。すぐにたどり着ける場でもないですよ。いろんな人が関わった上で、いつか実現するかどうか」
スピアーズでも、いつも恩返しの意識を持って行動してきた。スタッフを含めた日本人と、毎年のようにやってくる海外選手を繋ぎ、「三角形」の関係を持つように心がけてきた。
「海外からの選手に伝える第一のことは、クボタの取り組みと、そこにいる人たちに対するリスペクト。もしも『これは俺のやってきたラグビーと違う』という選手がいれば、『ここでは違うやり方がある。あなたの方が、クボタを理解しなければならない』と言います。もちろん、彼らの側の意見や気持ちをチームに伝えることもある」
忘れないのは、自分がクボタに加わった時の、職場やチームの先輩方の言動だ。
「会社に来たばかりの頃に言ってもらった。オツコロはラグビーで存分に力を発揮してくれ、他のことは俺たちが面倒を見る、と。私は、ありがたくみなさんの気持ちに甘えました。そして堂々とラグビーをした。頑張っていると、先輩たちがご飯を食べに連れていってくれることもありました。食事もお酒も美味しかった。けれど、いろんな話ができたことがもっとうれしかった。そこは誰もが入れる輪ではなかった。自分の後輩たちにそんな気持ちや、耳にした大切なことを伝えるのも自分の役目だと思ってました。13年、そうやってきた」
クボタには感謝の気持ちでいっぱい、と繰り返す。
そして、自分をこのチームに引き合わせてくれた多くの人へも恩返しがしたい。プレーヤーとしてそれができれば最高です。と今の気持ちを率直に表し、プロ選手として、トレーニングを続けている。
撮影のために、クラブハウスでカトニのロッカーに案内してもらった。時期はまだ2月だったが、その一角だけがきれいに片付けられていた。シーズンが終わったすぐ後に、長年使った御礼にと、ロッカーを磨いて私物をすべて運び出したという。トレーニングに来ても、広いロッカー室の端の方に自分の着替えや荷物を置いて、その場所は使わずにいたらしい。
「ここは、このチームでの僕のすべてがある空間。でももう次の人の場所だからね。きれいにして出たい」
加入は2006年、トップリーグができて4年目のシーズンだった。企業とラグビーの関係は目まぐるしく変わった。2008年、リーマンショックによる世界規模の金融危機。2009年、ワールドカップ日本大会開催の決定。2011年、東日本大震災。2015年には南アを破った日本代表の躍進もあった。
時代の乱高下の影響を真っ先に受ける競技の現場で、「助っ人」とも取られがちな海外出身の選手として、チームに請われ続けた。それは、オツコロ カトニ、その人がやはりぶれなかったからだ。
「16歳で日本に来てから20年以上、日本でお世話になってきた。この恩は倍にして返したい」
頑なにも聞こえる言葉は、この先の生き方を照らす彼自身の光だ。彼らを受け入れ、支えられてきた楕円球世界に生きる人々の希望でもある。