コラム 2018.08.07

岡本博雄、未だ酷暑に負けず。 大阪府立淀川工業高校前監督

岡本博雄、未だ酷暑に負けず。 大阪府立淀川工業高校前監督
淀川工科の「中興の祖」である岡本博雄前監督
 ラグビー界では夏合宿、真っ盛りである。
「一週間、みっちりやれば違うてくる。チームは変わるね」
 岡本博雄はその重要性を口にする。
 褐色の肌、下がった目じり、迫らない話し方…。68歳の今でも変わらない。
 淀川工(現淀川工科)が持つ花園出場13回中、監督で5、選手で2の7回を経験した。
 指導者では68回大会(1988年度)の印象が残る。大阪代表として準決勝に進出した。
「あの年、布施工(現布施工科)が強かったんや。それで、夏合宿は一週間まるまるスクラム、モール、それにランパスに絞った」
 同じ公立実業校を率いたのは川村幸治。後年の高校日本代表監督に対抗する。
「スクラムは午前中100本、午後100本の計200本は組んだんとちゃうかな」
 4、5人が横並びになり、ボールをつないでの100メートル往復で走力を上げる。
 長野・菅平での効果はその年末年始に出る。
「全国大会で5ゲームやって、ケガ人がひとりも出んかった」
 茗渓学園に7−32で敗れるも、同校2回目の4強進出を決めた。
 ラグビーを始めたのは旭陽中。道をつけたのは小藪修だ。1995年の第3回ワールドカップでは日本代表の監督をつとめた。
「6軒隣に住んではってん。2つ上。いっつも、ケツについて遊んでもらってたな」
 SOだった小藪を慕い、同じ淀川工へ進む。1947年(昭和22)創部のチームは、岡本の入学までに4回、全国大会に出場していた。
 岡本は即、CTBでレギュラーになる。
「だって、2、3年生は13人しかおらへんかったんやもん」
 その1965年度の45回大会では初の4強入り。3−3と盛岡工に抽選負けも、勝者は決勝で天理を6−5で下し、初優勝する。淀川工が全国制覇の至近距離にいた時代である。
 岡本は、8−8と抽選勝ちした2回戦の秋田工戦で腓骨(ひこつ)を折り、戦列を離れる。
「バキッと音がしてん。当時やから治療なんて、コーチが日本手ぬぐいを縦に2つに切って、すねの上と下に巻いて終わりや。痛くて、痛くて、立ってるだけで精一杯。その時は交替が認められてへん。出たら14人でやらなあかんやん。でも、動けへん俺の代わりに、コヤブさんとか、みんなが、なんにも言わんとカバーしてくれてなあ、ええスポーツやなあ、と思ったよ」
 大学も小藪が進んだ同志社を志望するが、不合格。絶望感は大きく、国鉄(現JR)に就職する。その2か月後、母校のバスケットボール部監督と偶然再会。人生が一変する。
「気晴らしに岩湧山(いわわきさん)に登ったんや。景色を見ながら、おにぎりを食べていたら、反対側に先生がいはったんよ」
 先生は大内田節夫。大阪の南東にある山頂で現状を聞き、「もったいない」と自分の母校・日本体育大への進学を勧めた。
「実はね、高3の時に綿井先生が学校まで来てくれて、『ウチに来ないか』と奨学金付きで誘って下さった。でも、同志社に行きたくて、断ってしもうてん」
 岡本は、大内田の推薦を持って、一般受験で合格する。日本体育大の監督で、その後、学長をつとめる綿井永寿は教育者だった。
「よくきてくれた」
 岡本を快く迎え入れる。
 卒業後、2年間は和歌山県で教員生活を送った。その後、母校に呼び戻される。
 岡本と入れ違いで、大内田は金岡に異動。ラグビー部監督となり、後年、東海大仰星を監督として率い、全国頂点を2度極める土井崇司や淀川工科の現監督・農端(のばた)幸二らを育てた。
 岡本は40年に渡り、監督や部長としてチームに関わる。60歳定年後に5年ある再任用期間も淀川工にとどまった。
 赴任した1975年以降の花園出場回数5は、激戦区の大阪で公立校としてはトップだ。島本4、茨田(まった)と布施工の3、阪南2、牧野と北野の1をしのぐ。
 主な教え子は、NEC元ヘッドコーチの岡村要、パナソニック前監督の中島則文。現役のスクラムコーチはNTTコミュニケーションズの斉藤展士。そして、北摂つばさ顧問で保健・体育教員でもある長男・吉隆がいる。
 今年6月から、週3日、近所にある小学校の学童保育指導員をしている。
 保護者が働きに出ている子供たちに、放課後、勉強を教えたり、遊んだりする。
「可愛い。当たり前なんやけど、毎日表情が違うもん。笑ったり、泣いたり、怒ったり…。孫の面倒を見ているみたいで楽しいよ」
 今も教えることに生きがいを感じる。
 8月25、26日には淀川工科である「博雄カップ」に参加する。岡本を讃えるべく、その定年後にできた冠大会だ。近隣の中学チーム30ほどが集まり、試合を重ねる。
 自宅のある奈良・生駒から大阪・旭区までの交通手段は「YAMAHA SEROW」。山も走れる250?オートバイだ。
「学校まではあっという間やで。日曜の朝、車が少なかったら20分くらいで着くわ。風を感じる、自然を感じるんがええんや」
 学童保育にもセローにまたがって行く。50歳になってバイクの免許を取った。
「教員の時は、高校生に『危ない、ダメ』と言うとったけど、とんでもない。おもしろい」
 3年ほど前には、極度の疲労に襲われた。
「ウルトラマンが疲れた感じやった」
 座り込み、肩を下に、首を前に落とす。家の近所のクリニックで寝ながら点滴を打った。原因がわからず、大病院に回される。
「ほしたら、検査で入院している間に元気になってしもうた。なんで回復したかは、未だに謎。わかってへん」
 13歳からラグビーと歩んだ人生。体力の貯金は、まだまだ残っている。
(文:鎮 勝也)

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