国内 2018.03.28

デイゴの花よ咲け。銘苅信吾、「沖縄のラグビーを日本一へ」。

デイゴの花よ咲け。銘苅信吾、「沖縄のラグビーを日本一へ」。
1987年5月3日生まれ。好物はヒージャー(山羊)の刺身。(撮影/松本かおり)
 沖縄に茂るデイゴは強く根っこを張る花だ。
 3月17日、その花の名をつけたラグビースクールが県北部の名護で体験会を開いた。
 会場は、海のすぐ近くにある21世紀の森ラグビー場。しかし、開始予定の時間には10数人の子どもたちしかいなかった。
 4月から本格的にデイゴラグビースクールを運営する銘苅信吾(めかる・しんご)さんの心は穏やかではなかった。思っていたより少ない。そう感じたからだ。
 銘苅さんは、名護高、国際武道大とラグビーを続け、大学卒業後はワセダクラブで働いた。事務局の仕事に就き、子どもたちの指導にあたった。早大ラグビー部のコーチも務めた。故郷に戻ったのは、この2月のことだった。
 実は体験会への出足は決して悪くなかった。
 大学とワセダクラブでの生活で12年も地元を離れていたから、「沖縄時間」が鈍っていたか。開始予定時間に家を出る人が多くいるのを忘れていた。
 やがてグラウンドには80人ほどの子どもたちが集まった。
 将来の沖縄ラグビーを支える子どもたちだ。
 5年前は約350人いた沖縄の高校生ラグビーマンは現在約150人。その数は、わずかな期間で半分以下になった。そんな流れを止めたい。楕円球を追う子どもたちを増やしたい。銘苅さんは、その一心で名護に戻った。
 2015年度に早大のヘッドコーチを務めた後、山下大悟監督のもとではジュニアチームのコーチを務めていた。その1年目、監督には2シーズン目が終われば沖縄に向かう決心を伝えた。
 昨年5月で30歳になった。
 今年の3月31日には小中高の同級生、里奈さんと入籍する。
 そして2018年は沖縄のラグビー協会ができて50周年。
 新しい道を踏み出すにふさわしい年だ。
 12年後、母校の名護高校を花園で優勝させる。
 銘苅さんは本気だ。
 ワセダクラブで小学1年生が小学校を卒業するまでの6年間、一貫指導をした経験がある。そのチームが6年生になったとき、ヒーローズカップの全国大会で3位になった。
「そのとき、この子たちを中学、高校でも指導できたら全国を獲れる(日本一になれる)ぞ、と思ったんです」。
 ラグビースクールでの指導を通して知った。子どもたちは全員が何かしら長所を持っている。大人たちが思っている以上に秘める可能性は大きい。
「6年間指導できたからこその結果でした。もちろん失敗もありました。ただ、それだけの時間があったから、中期、長期のプランで考えることができた。その時々に子どもたちに必要なことをやれました。(1年区切りとか、各大会ごとに結果を求めるなど)期限が決まっていたら、過剰(なコーチング)になってしまうところを、じっくりやれました」
 その経験を活かして名護でラグビー好きの子どもたちを増やしたい。そして一人ひとりの力をゆっくりと、着実に積み上げてあげたい。
「簡単なことから難しいことへ、段階を踏んで中3までデイゴでラグビーを続けた子どもたちは、ここまでできる。そういう前提があれば高校3年間の取り組み方も変わる。やるべきことも決まると思う」
 12年後は、この春の小学1年生が高校3年生になる年だ。頭の中にある理念とシステムがあるラグビースクールで育った子どもたちなら日本一になれる。
 そして、そういう子どもたちを育てるスクールが長く沖縄ラグビーの発展を支えてくれたらいい。
 銘苅さんはワセダクラブで、子どもたちから多くのことを教わった。
 3年前の山梨・河口湖での夏合宿の光景が忘れられない。6年間指導した子どもたちが5年生の時だ。6年生チームへのチャレンジマッチを実施した日だった。
 Aチーム、Bチームの2試合がおこなわれた。体格差もあって例年は6年生が大勝することが多い。その年の5年生Aチームは頑張って僅差で負けた。しかしみんな悔しくて、ボロボロ泣いた。
 そんなときだった。最初に動いたのは清宮福太郎だ。涙をこらえてBチームの円陣に近づき、6年生はこうしてくる、ああしてくると伝え、こうやればいいとアドバイスをおくった。他の選手たちも続いた。
 コーチに言われるわけでなく自発的な行動だった。そしてBチームは普段以上の力を出して6年生に勝った。
 みんな泣いて喜んだ。
 困難に直面したとき、しんどいときこそ頑張れる選手になろう。
 自分より弱い立場にある人に手を差しのべられる人になるんだ。
 ラグビーの指導を通して、そんなことを言い続けた。
 それが子どもたちの心に届いていたと知って「自分のことしか考えられなくなりそうなときに、みんな、そういう行動ができた」。勝ち負けを超えて心が震えた。
 人は成長するのだ。
 それは子どもに限ったことではない。早大ラグビー部の指導でも実感した。
 高校時代、おそらく通知表の体育の評定が2か3だったと思われるWTBが4年でファーストジャージーを着た。5回のうち3回はノックオンしていたSOがFLに転向し、2年間でEチームからAチームに這い上がった。
 コツコツと努力を重ねる人間は、いつか花を咲かす。
 自分も地に足をつけて指導し、沖縄でデイゴの花を咲かしたい。
 4月になったら会社登記をおこない、同7日に入校式を開くつもりだ。
 3月の体験会に参加した80人の中には、福岡から駆けつけてくれた人もいた。その中の30人近くからは、すぐに入校希望が届いた。小学1年生〜4年生までは週に2回、5〜6年生は3回、中学生は5回の活動を考えており、それぞれ3000円、5000円、7500円の月謝を予定。地元企業からのサポートなども募り、クラブを運営していこうと思っている。
 しばらくしたら高校時代の2年後輩が指導スタッフとして加わる。体験会では地元・やんばるクラブのメンバーが指導のサポートをしてくれた。仲間たちのサポートが嬉しい。
 早大、ワセダクラブでの8年間でコーチングのテクニックも、最新の理論も学んだ。それらを財産に、「押しつけるのではなく、子どもたちの目的達成のサポートをするつもりです」。ティーチングでなくてコーチングを心掛ける。
「コーチとしても学び続けるつもりです。現在の最新と言われる練習が、この先も、そのままのはずがないからです。学び続けることもコーチの責任」
 2月から毎月数日間、アルカス熊谷(埼玉)でアシスタントコーチを務めている。指導スキルとクラブ運営を学ぶ機会だ。成長の足を止めるつもりはない。
 自身が高校生だった頃に名護に指導に来てくれて以来のつき合いである、後藤禎和さんのようになりたい。大学卒業時、ワセダクラブに誘ってくれた。早大監督時代にはヘッドコーチに指名してくれた恩師でもある。
「後藤さんは選手のことを誰よりも観察しています。だから、一人ひとりにとって意味のある言葉をかけられる。だから、かける言葉が少々キツくても選手たちは受け入れる。みんな、(後藤さんが)誰よりも自分を理解してくれていると分かっているんです」
 故郷に戻ることを決めたと、その人に報告に行った。しばらくして、一通のメールが来た。
 使わなくなったボールやジャージーがあるから送ろうか。
 これまで、自ら連絡してくることなどなかった人から届いたのは、その一行だけだ。
 でも、たまらなく嬉しかった。新たな力がわき出たような気がした。
 自分もそんな指導者になる。沖縄の子どもたちの心を前に進ませる。

hana

沖縄県ラグビー協会のネクタイにはデイゴの花。県花でもある。

PICK UP