コラム 2017.11.16

【野村周平 コラム】 孤独を恐れず。腹をくくって。

【野村周平 コラム】 孤独を恐れず。腹をくくって。
1985年度、慶應大学は対抗戦4位から、日本選手権で社会人王者トヨタを破って日本一に輝いた
(写真は当時のラグビーマガジン表紙。左が中野主将)
▼仲間とつるんで緩む背中を後輩に見せたくなかった。何かを犠牲にしてでも、チームを押し上げたい覚悟の現れ
 先日、かつて私が在籍した慶應義塾大学ラグビー部OBの先輩方の話を聞く機会に恵まれた。部の将来像を語らう懇談会の場だった。中華料理店の円卓で若手を含めた各世代の主将らが活発に意見を出し合う中、日本一に輝いた1985年度の主将、中野忠幸さんの言葉が心に残った。
「規律が重要だと思って、4年になってから一度も同級生と飲まなかった。下はやはり、上のことをよく見ている。4年が一番厳しくあるべきだと考えた」
 主将としてチームをどう束ねたのか。そんな質問に対する中野さんの答えだ。
「ハシモトゴショナカノ」。あの独特の響きで他校に恐れられたFW前1 列の右の支柱の落ち着き払った太い声には、迫力と説得力があった。
 グラウンド外では二十歳を2、3過ぎたばかりの青年だ。同期と酒を飲み交わしたくなる時もあっただろう。でも、仲間とつるんで緩む背中を後輩に見せたくなかった。何かを犠牲にしてでも、チームを押し上げたい覚悟の現れ。スキッパーは決して、孤独と向き合う事から逃げなかった。
 中野さんが主将を務めた前年度の慶大は松永敏宏主将の下、関東対抗戦優勝。大学選手権決勝に進み、平尾誠二さんらを擁する王者同志社大をあと一歩まで追い詰めていた。「前の代は注目されていた。そこから、多くのメンバーが抜けた。ゼロからのスタートだと思っていた」と中野さんは振り返る。危機感が生んだリーダーの厳しさが、対抗戦4位からの大学選手権制覇(明治大との同時優勝)、そしてトヨタ自動車を倒しての日本選手権優勝という慶大の金字塔へとつながったのは間違いないと思う。
 
 私は2015年にイングランドでラグビーワールドカップ、翌年にリオデジャネイロ五輪を現地で取材した。そこで実感したのは、何かを成し遂げた人たちは共通して、腹をくくって生きているということだった。
 ジャパンを初のワールドカップ3勝に導いたエディー・ジョーンズ ヘッドコーチが自他を厳しく律したことはラグビーファンの方にはもはや周知の事実だろう。チームを準々決勝に導く。世界に日本のラグビーを認めさせる。そのために使える手立てはすべて使った。エディーさんに引っ張られて選手たちも自立し、たくましくなった。
 リオ五輪で私が担当した柔道では、攻めの姿勢を貫いて金メダルを獲得した大野将平選手や田知本遥選手の姿が印象的だった。
 2人には共通項があった。大野選手は大学の部内での暴力問題、田知本選手は試合前に飲んではいけない風邪薬の誤用が発覚し、ともに連盟から処分を受けた。社会的にも批判された。2人の頭に、引退の2文字がちらついたこともあった。
 練習から離れ、己と向き合った。何が足りなかったのかを見つめ直した。大野選手は自分が卒業した後も大学の後輩たちが早朝に町中を清掃活動する姿を見て、「こいつらのためにも」と自らを奮い立たせた。田知本選手は一人で海外を訪れ、柔道家たちと交流し、今まで見つめてこなかった世界がいかに広いかに気づけた。
 いかなる事情があったとはいえ、2人の失敗は、日本を代表し、一部に公金が投入されるアスリートがしてはならない行為だった。特段、美談にすべきストーリーではないかもしれない。失敗が失敗のままで終わる人もいる。ただ、2人がこれらの失敗を人生の転機にしたのも、また事実だ。「攻め抜く」「力を出し切る」と言葉に発する選手は数いれど、4年に1度の大舞台で、伸びやかにそして大胆にそれを体現できたのはやはり、2人が心底腹をくくることができたからだと思う。
 
 人にはさまざまな腹のくくり方がある。中野さんのように伝統と責任を引き継ぎ、己を律した人がいる。南アフリカを倒したジャパンの面々は、これ以上はできないというほどハードワークを自らに課し、澄み切った気持ちで決戦に臨めた。柔道の2人のように失敗し、たたかれ、そこからバネのように跳ね上がったケースもある。きっかけがなんであれ、人から押しつけられるのでなく、自らが気付き、獲得したものであれば、どんな横やりがこようともぶれることはない。
 
 私はこの1年あまり、スポーツの現場取材から離れ、行政や政治の現場を追っている。
 選挙を取材すると、「○○をやります」と声高に叫ぶが、その代償について誠実に説明する政治家はほとんどいないことに改めて気づく。物事に裏表があることを市民は承知しているのに、腹をくくって痛みを理解してもらおうとしない。
 だからこそ、私たちメディアの役割は大きい。マスコミ不信が指摘されて久しいが、物事を多面的、多角的に報じる努力を欠かしてはいけないと思う。
 孤独を恐れず、責任のベクトルを自らに向ける大切さを、私はアスリートに教えてもらっているのだから。

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「4年後、私の周りには誰もいなくなっているでしょう」(2012年、就任後のインタビュー)。前・日本代表ヘッドコーチのエディーさんは就任当初から覚悟があった
【筆者プロフィール】
野村周平(のむら・しゅうへい)
1980年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学卒業後、朝日新聞入社。大阪スポーツ部、岡山総局、大阪スポーツ部、東京スポーツ部を経て、2016年より東京社会部。ラグビーワールドカップ2011年大会、2015年大会、そして2016年リオ・オリンピックなどを取材。自身は中1時にラグビーを始め大学までプレー。ポジションはFL。

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