コラム 2015.07.02

下着は自分で。  藤島 大(スポーツライター)

下着は自分で。
 藤島 大(スポーツライター)

 戦時中の沖縄で最後の官選知事を務めた島田叡(あきら)の顕彰碑の除幕式が6月26日、那覇市の奥武山運動公園で行われた。この稀有なる人は「ラグビーの先輩」でもあった。苛烈にして残酷な地上戦から70年、以下、労作である『沖縄の島守』(田村洋三著、中公文庫)を引きながら、ノブレス・オブリージュ、すなわち「位高き者、務め多し」を困難のさなかに実践した人物を紹介したい。
 
 1945年1月末、米軍の沖縄攻撃の2か月前に赴任する。戦況は刻々と悪化、ほとんど死に身を投ずるのに等しかった。前任知事や副知事格の内政部長は「出張」にかこつけて職務を放棄、とっとと本土へ逃げ出す。ここのところは人間とそのエゴイズムのひとつのあり方として考えさせられる。そこで大阪の内政部長であった43歳の島田に沖縄県知事発令、元秘書官によれば、本人は次のように話していた。

「おれが行かなんだら、だれかが行かなならんやないか。おれが死にとうないから、誰か行って死ね、とは、よう言わん」

 ロイド式の眼鏡。どこかのんびりとした猫背。優しい物腰の新知事は果断に政策を実行する。住民の疎開や食糧確保に奔走、防空圏を外れて危険な台湾へみずから赴き、貴重な米の海上輸送を実現させる。弱者への想像力を忘れぬ飄々としたふるまいが人望を集めた。前掲の『沖縄の島守』の著者は、島田知事の人格を大略こう記述している。「美談を書きたくないので困るが、周辺をいくら取材しても心からの敬慕しか得られない」。いまそんなエリート官僚や国会議員は存在するのだろうか。

 兵庫生まれ。旧制三高の優れた野球部員であった。東京大学へ進むと、ラグビー部に「助っ人」で加わり、京都大学との定期戦では終了後に昏倒、「3日間意識不明」となったらしい。「のちの沖縄知事、倒れる」の細部はもはや確かめられぬが、「オールアウト(出し切り)」の性格はきっとそうなのだろう。大学の最終学年、将来を左右する文官高等試験を控えながら三高野球部の指導に情熱を傾けた。
 
 沖縄戦の最終段階。差し入れの食糧が届くたびに「けがしている人に」と手をつけなかった。女性職員が洗濯の際に「知事さんのものも」と声をかけたら「下着は自分で洗いますから」(古今東西、善き人は自分のことは自分でする)。「どうか生きながらえて」と職員たちに訓示、県の組織を解散すると、盟友である県警察部長の荒井退造とともに地下壕から地下壕を徒歩で移動、執務を続けた。
 
 いかに善き知事であっても、沖縄県民を本土決戦の時間かせぎの盾としたい戦時体制の内側の「官」という立場に変わりはない。名もなき民の命に心を砕き、なお死へまっしぐらの戦争協力を求める。責務と良心とのぎりぎりの格闘。45年6月26日、糸満は摩文仁の丘のどこかに姿は消える。遺骨は現在まで見つかっていない。

 快適な時間、平穏な場所では、誰であれ良心を抱ける。しかし苦難が続き、心身はひどく疲弊、迫りくる危険の渦中にもそうあれるか。自分だって「ちょっと本土で会議が」と逃げるのではあるまいか。腹がすいたら米飯をひとりでたいらげはしないか。「公」とは、不利にも孤高の良心を貫く態度だ。「みんな一緒に」の反対なのである。

 故人の作家、司馬遼太郎が、自身も経験した新聞記者について、こんな内容を述べたのを覚えている。「記者ならば、会社の机で、自分の子供が有名な学校に入れたらええなあ、と考えることもいけない。公の仕事なのだから」。ラグビーの指導者も「公」は同じだろう。島田叡の胸中に根を張った「死んでも守りたい良心」は、グラウンドの上ならば、物理的な死を免れる。それを知る若者を社会へ。平和のためのコーチの使命だ。

【筆者プロフィール】
藤島 大(ふじしま・だい)
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。著書に『ラグビーの情景』(ベースボール・マガジン社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)、『楕円の流儀 日本ラグビーの苦難』(論創社)、『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鉄之祐』(文藝春秋)、『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『ラグビー特別便 1986〜1996』(スキージャーナル)などがある。また、ラグビーマガジンや東京新聞(中日新聞)、週刊現代などでコラム連載中。J SPORTSのラグビー中継でコメンテーターも務める。

(写真:松本かおり)

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