コラム 2015.04.10

ラグビーワールドカップを巡る旅。 1987年NZ・オーストラリア共催大会。  小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

ラグビーワールドカップを巡る旅。
1987年NZ・オーストラリア共催大会。
 小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

 1987年の5〜6月に、NZとオーストラリアの2か国共同開催で行われた、第1回ラグビーワールドカップ(以下、W杯)に出場したのは、IRB(現在のワールドラグビー)に推薦された16か国である。そして出場国を選ぶ予選の行われなかった唯一のW杯となった。

 1985年、パリで行われたIRBの理事会投票でラグビーW杯の開催が決まった。当時NZのIRB理事だったディック・リトルジョンへのインタヴュー記事(Palomoa Migone 記者/NZファリファックス・メディア/ 2011年6月22日付)によれば、W杯開催の賛否を問う記名投票で賛成に回ったのは、提案国のNZとオーストラリアの他、南アフリカ、イングランド、そしておそらくウエールズが加わったとの推測が載っている。

 ただちにW杯開催の準備が進められてゆき、出場国として、当時のIRBの加盟国そのものであるビッグエイト8か国のうち、国際的なスポーツ交流を禁止されていた南アフリカを除く7か国、すなわちイングランド、スコットランド、ウエールズ、アイルランド、フランス、NZ、オーストラリアに加えて、世界の地域を代表する残りの9か国が選ばれた。その顔ぶれは欧州からイタリアとルーマニアが、南北アメリカからアルゼンチン、カナダ、アメリカが、南太平洋圏からフィジーとトンガが、アジアから日本が、アフリカからジンバブエとなった。

 参加国の選考という点で、’87年大会に日本が選ばれたのは、実力よりもラグビーの文化や歴史が優先された結果ではないか、という長年の疑念があった。その原因は1986年11月のアジア選手権(バンコク)決勝で、日本が韓国に敗れた(22-24)ことがあるのだが、この点に関して、後に筆者はIRBの文章に(出典をいま思い出せないのだが)、「1984年のアジア・ラグビー選手権(福岡開催)のチャンピオンである日本が選ばれた」と明記されているのをみつけた。つまり、日本が推薦された根拠は、’86年の成績とは関係なく、’84年のアジア・ラグビー選手権の成績によるものだったわけで、日本出場の正当性について腑に落ちたのである。

 したがって1986年の新しいアジアチャンピオンが、「我々こそがW杯に出場すべき国である」と主張して、W杯直前のオーストラリアへ遠征し、1987年5月17日に、ブリスベンのバリモアでワラビーズとフルインターナショナル試合(=双方キャップ認定)を行った(18-65で韓国の敗戦)ことは、時期を逸したデモンストレーションに終わったのだといえる。

 前記の記事には、’87年W杯大会のメインスポンサーとなった国際電電KDD(現在のKDDI)が支払った協賛金の額について、325万米ドル(700万NZドル)と伝えている。これは当時の換算レートで約5億円に相当する。
 ’87年W杯の表彰式で、エリスカップの次に優勝国のNZに贈られたものに、黒と朱色の漆塗りの酒杯であるKDD杯があった。形状が陣笠に似ていたせいか、オールブラックスのゲームキャプテンのデイヴィッド・カークは、表彰式でこの杯を頭にかぶっていた。

 KDDはラグビーワールドカップ史上で唯一の冠スポンサーなのだが、2回目の大会からは無縁となった。そこで、あの日以来、日の目を見ることのなくなった、KDD杯はいまどこにあるんでしょうねえ? ということだが、筆者がそれを目撃したのは2002年5月、オークランドのイーデンパークのスタンド下にあるミュージアムのガラスケースのなかだった。このミュージアムは現在非公開となっているはずだ。施設の公開にともなう人件費を考えると、商業的にはまったくペイしないからなのだと思う。

 そうそう、もうひとつ、この大会だけというものがあったのを思い出した。鉢巻きをしたラグビーボールに手足がついたような形の、マスコットのキャラクターである。名前はドロップ君だ。もしかして日本だけのキャラクターかなと思っていたが、NZのオークランドの街中のショップで、ドロップ君のピンバッジを見つけた。彼もこの大会のみで使命を終えてしまった。

 このW杯に、筆者はラグビーマガジンが募集した観戦ツアーに参加して、準決勝2試合、3位決定戦と決勝を見に行った。最後の4試合は今ならせいぜい2会場で済むところだが、このときは2か国4会場と毎試合大移動をともなった。
 オーストラリアで行われた準決勝2試合は、まず6月13日(土)に、FBブランコの劇的な逆転トライで知られるワラビーズ対フランス(24-30)がシドニーのコンコード・オーバルで行われ、翌日の2試合目はブリスベンのバリモアで、オールブラックスが49-6でウエールズを下している。この試合で、ウエールズのLOヒュー・リチャーズは相手のギャリー・ウエットンへのパンチで、W杯の退場第1号となっている。
 これに対し、彼にKOパンチを見舞ったオールブラックスのNO8バック・シェルフォードにはおとがめが無かった。レフェリーは決勝戦を吹くことになるケリー・フィッツジェラルド氏(オーストラリア)である。

 6月18日(木)にNZのロトルア・インターナショナルスタジアムで行われた3位決定戦でも、開始7分にワラビーズのFLデイヴィッド・コーディーがスタンピングで退場となっている。この試合はワラビーズのその後の頑張りで、W杯の3位決定戦として一番(唯一?)盛り上がった試合と呼ばれることになる。ウエールズが試合の最後にトライ、ゴールをあげて22-21で勝利を収めた。

 この試合の前、ロトルアのスタジアムのタッチラインの外に、エリスカップは無防備に台の上に置かれていた。今なら張り付いているガードマンも、このときは皆無だ。われわれ観客は、カップにベタベタと、自由気ままに手を触れ、勝手に写真撮影を行ったものである。ラグビーがアマチュアスポーツだった頃の、いかにも牧歌的な雰囲気を象徴する、二度とないW杯の光景である。

 6月20日(土)の決勝は、オークランドのイーデンパークが会場だった。WTBのジョン・カーワン、FLマイケル・ジョーンズ、SHカーク主将の主役3人がトライを決めて、NZがフランスを29-9で破り、初代チャンピオンに輝いたのはご存知のとおりである。表彰式が終わると、観客はイーデンパークの芝の上に入り、各自の足で芝の感触を確かめ、最後に全員で、マオリの別れの唄「ナウ・イズ・ザ・タイム」を合唱し、こうして第1回W杯は幕を閉じたのだった。

 最後に付け加えると、この大会を仕切った英国のスポーツ・マーケティング会社のウエスト・ナリー社が大会後に倒産し、’87年大会は黒字決算となってはいるが、正確な数字は出ていないのである。

【筆者プロフィール】
小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)
ラグビージャーナリスト。1949(昭和24)年、東京生まれ。立教大卒。貿易商社勤務を経て画家に。現在、Jスポーツのラグビー放送コメンテーターも務める。幼少時より様々なスポーツの観戦に親しむ。自らは陸上競技に励む一方で、昭和20年代からラグビー観戦に情熱を注ぐ。国際ラグビーに対する並々ならぬ探究心で、造詣と愛情深いコラムを執筆。スティーブ小林の名で、世界に広く知られている。ラグビーマガジン誌では『トライライン』を連載中。著書に『世界ラグビー基礎知識』(ベースボール・マガジン社)がある。

(写真:第1回ラグビーワールドカップの表彰式で優勝杯を掲げるNZ代表/photosport)

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