本当にそうなのか。 藤島 大(スポーツライター)
素朴な疑問がいくつかある。昔のジャージィを着たら試合に負けてしまうのか。ハイテクノロジーの軽量をまとった側が必ず勝つのか? どこかのチームに試してもらいたい。襟を付けると、それなしに比べて、そんなに不利なのだろうか。「ラグビー人のかつての誇りでもあった本格的な襟付きジャージィの(ほぼ)消滅」には、どうもファンと選手とは無縁のビジネス事情がある気がしてならない。
以下、ラグビー選手だけではなく、日本列島に暮らす多くの人に共通なのだが、立派な成人男子がさして重くもなさそうな荷物をガラガラと引いて歩くのは不思議だ。ここ、という時のヘビーなスーツケースなら理解できる。海外へ向かう空港であれば当然だ。でも普段の駅のエスカレーターとエスカレーターのあいだのほんのわずかの「平地」のたびに、またガラガラするのがおかしい。数年前、北海道大学ラグビー部出身の知人は、トップリーグの巨漢の選手が「小さなカバン」を引くのを地下鉄の駅に見て言った。「荷物を持つことで左右の体のバランスを崩さぬように、というコーチの指導なのでしょうか」。なんたる純情。北大のラグビーはきっとよいクラブだ。
もうひとつは交替の形式化について。後半20分になると、しばしばフロントローを中心に入れ替えが盛んとなる。挑戦者側があわや金星か、というところでフッカーを替えて、セットプレーが乱れて勝利が逃げてしまったりする。本当にあと20分のところでフレッシュな前3人にしないと敗北を喫するのか。
先日、キヤノンがサントリーをやっつけそうになった。見事な内容だった。後半20分、17−13とリードしている時間に、6番の元オールブラックス、アダム・トムソンを引っ込めて、やはり天秤の傾きは逆になった。そこまでトムソンの攻守の奮闘はまったく見事であり、ことにラインアウトでの相手投入への圧力は効いていた。不在となって、むしろ自軍ボールまで獲得できなくなり流れを渡した。トムソンは前半にシンビンで「休息」していたので、もっと引っ張れるのではと思った。
試合後の会見、永友洋司監督は「トムソンの交替は既定のこと」と語った。ここで注意しなくてはならないのは「選手の情報は監督がいちばん持っている」という自明の事実である。記者席で眺めている印象に収まらぬ「生々しい現実や事情」によって試合中の采配は決まる。トムソンと入れ替わったカール・ロウもターンオーバー狙いの「地上戦」に強く、相手の疲れたところで登場すれば力を発揮する。一般論として間違っているわけではない。
次元は異なるが「トムソン引っ込めるな」と、つぶやいた本コラムの筆者も、大学コーチ時代、取材者やファンの人に「なぜ、あそこで元気のよい選手を投入しないのですか」と聞かれて、ちょっと腹を立てた経験がある。現場には現場の赤裸々な世界があり、たとえば練習での様子を観察して「この試合では、あえて彼には最後まで力をふりしぼる経験をさせよう」というような背景がある。そのことと「動きの遅いベンチワーク」は深いところで結びついている。采配と強化は分離しないのである。
だから、実際にキヤノンの力を伸ばしている永友監督には、きっとシーズンを見通した理由はあった。ただ、あのサントリー戦をファイナルと見立て、もし必勝のみを期すなら、オールブラックスで29テストマッチ出場の長身選手はフル出場だな、と感じただけである。クボタが東芝を破ったゲームでは、オールブラックス36テストのアイザイア・トエアバの足がつっても、そのまま芝の上に立たせた。いずれにせよラグビーの勝負とは人間の行うことなので、交替をルーティンにしてはならない。
さてサントリー戦のトムソンや東芝戦のトエアバのような「頼りになる人」は、どんなレベルにもいる。たとえば小学生の試合でも、高校生でも、またワールドカップの決勝にも「本物の中の本物」は存在する。子供なので全員ナイーブで、オールブラックスだから総員が自信満々というわけではない。人間とは他者との関係で人間なのである。
【筆者プロフィール】
藤島 大(ふじしま・だい)
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。著書に『ラグビーの情景』(ベースボール・マガジン社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)、『楕円の流儀 日本ラグビーの苦難』(論創社)、『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鉄之祐』(文藝春秋)、『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『ラグビー特別便 1986〜1996』(スキージャーナル)などがある。また、ラグビーマガジンや東京新聞(中日新聞)、週刊現代などでコラム連載中。J SPORTSのラグビー中継でコメンテーターも務める。