コラム 2013.02.22

選手がいて、私がいる。  田村一博(ラグビーマガジン編集長)

選手がいて、私がいる。
 田村一博(ラグビーマガジン編集長)

 試合会場に向かうバスで、どこに座るか。そこに、チーム内での存在の大きさや性格があらわれるのは、よく耳にする話だ。



「わたしは試合会場に着いたら、いつも最後にバスを降ります」
 日本代表を率いる、エディー・ジョーンズ ヘッドコーチだ。
「試合に近づけば近づくほど、その存在が小さくなるのがコーチです。だから私は、試合会場に着いた瞬間から、選手に先頭に立ってほしい。そう思うので、みんながスタジアムに入る姿を見た後に、立ち上がります。最後は選手たちの時間。試合の主役はコーチじゃないし、準備をやり切っていたら何もやることはない」
 エディーさんは、「選手入れ替えの決断だけですよ、試合中にコーチの能力が発揮されるのは」と言って笑う。
「でも、それが練習会場へ向かうバスなら逆ですよ。到着したら、私が真っ先に立ち上がる。練習ではコーチが主役ですから」



 プレーヤーズ・ファースト。
 その信念は、大阪体育大学を36年間指導し、2012年度シーズンを最後に監督の座を退いた坂田好弘さんからも聞いた。



 今年1月。ラストインタビューをお願いした際も監督は、いつものようにとても素敵だった。「関空まで迎えに行きますわ」の声に甘え、学食で唐揚げ定食をご馳走になる。世界に知られるラグビーレジェンドは、いつも優しさで包み込んでくれる。人を威圧することとは無縁のラグビーマンだ。



 36年間の指導生活の最後、坂田先生が学生たちに伝えた言葉はお礼だった。
 大学選手権のセカンドステージ、大体大は早大との一戦で2012年度のシーズンを終える。試合後、坂田先生は選手、コーチたちの前で言った。
「あなたたち選手がいたから、チームがある。選手がいてチームがあるから、監督、コーチがいる。ありがとう」
 俺が教えたる。言うとおりにすればええんや。そんな気持ちから始まった指導者人生だったけれど、36年間やり抜いてたどりついた答えはそれだった。



 坂田先生自身、何人もの名監督に指導を受けてきたが、忘れられない人の中に、近鉄時代の中島義信監督がいる。
「類を見ない指導者。近鉄の選手はこの人に、日本刀のように鍛えに鍛えられ、簡単には折れない鋼の強さがあった。純粋に近鉄ラグビーを強くしたいという無私の人でした」
 全国社会人大会50年史に、坂田先生が寄せた手記の一部である。



 その中島監督の指導の一部を、先日の取材時に聞いた。当時、花園ラグビー場で行っていた夏合宿でのことだ。
「ある日、ランパスが始まりました。インゴールからインゴールまで、何本も走りましたが、いつまでたっても終わらない。監督は雑草を抜いているのか、石コロを拾っているのか、下を向いてジーッとしているだけ。選手たちはだらけ、中にはイラつく者も出てきました。
 そんな空気になっても、監督は変わらなかった。どれだけ走っても、何も言わない。異様な雰囲気です。そうしているうちにある選手の頭に血がのぼり、監督の近くに石を投げた。気づいたか気づかなかったかはわかりません。でも、それでも何も言わない。こわくなりました。誰もが、『このオッサン、死ぬまで走らせる気か』と感じたはずで。だらけた空気が消えた。みんな、ダーッと走り始めた。倒れてもいいと、とにかく必死。やがて、『次』という指示が聞こえました。
 監督はジーッと下を向いて、選手たちの呼吸と足音を聞いていたんです。力を出し切ったら、自然と呼吸が揃い、足音も揃う。その時が来るのを待っていた。もの言わんと、本気にさせよったんですわ」



 勝負であり、師弟として生き、互いに尊敬を忘れない。コーチングは、決して一方通行では成り立たない。ラグビー界にとどまらず、世のコーチと呼ばれる方たちすべての胸に、この原点が刻まれていますように。


 


(文・田村一博)


 



【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。89年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。


 


 


(写真:ラストゲーム後の花束贈呈で、泣きじゃくる愛弟子を優しく見守る坂田好弘氏/撮影:BBM)

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