国内 2012.11.29

【田村一博コラム】 熱中時代。

【田村一博コラム】 熱中時代。


tamura


(写真:BBM)


 


 


 娘が週末を楽しんでいるラグビースクールの記念行事でのことだ。当時早稲田大学のリーダーだった山下昂大主将に参加してもらったことがある。卒業する小学6年生たちに向けたトークショーの進行をさせていただいた。中学校に進学しても、ラグビーを続けたくなるような内容に。関係者とそう話していた。



 山下主将が帆柱ヤングラガーズに通っていた頃の話、大学ラグビーの話をしている途中、キャプテンが言った。「僕がこの場で、こんなことを言っていいのか、と思いますが」と前置きして言葉を続けた。
「ラグビーじゃなくてもいいんですよ。何か打ち込めること、熱中できることを見つけ、やってくれれば。きっと、いろんなことを得られますから」
 憧れの人がそう言う姿を、最前列の6年生たちは澄んだ目で見つめていた。そこにいる多くの大人たちの思いは、一瞬にして伝わった。ラグビーの魅力を直接的に語るのではなく、導く言葉を、彼ら、彼女たちのラグビーの先輩が言ってくれたことに皆感激した。



 熱中時代の象徴、高校ラグビーの季節である。花園の芝を踏む日を楽しみに待つ各代表校の選手たち。一方で、夢破れた少年たちはどうしているのか。
 ただ、聖地を目標に打ち込んだ日々を持つ者は、それだけでシアワセと思う。刻んできたいくつものシーンは、ずっとそのままだから。いくつになろうがそこを思い返せば、しゃかりきだった自分がいる。



 ラグビーマガジンの先月号(12月号)には出雲高校(島根)の記事が掲載されているが、高校ラグビーの季節になると思い出す先輩がいる。同校OBで、大学時代のクラブでともに時間を過ごしたヨコギさんだ。大学の2学年上。2008年の年末に花園での取材を終えて自宅に戻ると、訃報が届いた。小腸ガンに屈し、まだ40代半ばだった。
 弱小クラブでは珍しい高校ジャパン候補。強靱なCTBで亡くなる2か月前に病床を訪ねたとき、「痛み止めが効かないんだ。こんなところにカラダの強さが出ちゃうなんて、イヤになっちゃうよ」と言った。苛立ちの中にも、ラグビーマンの誇りがあった。



 お見舞いで島根を訪ねたのは、ヨコギさんの同期の方が知らせてくれたからだ。1980年代前半の早稲田ラグビーが大好きで、そのビデオを本人が見たがっていると聞いた。当時のスター、本城和彦さんに伝えると、すぐに手配がついた。出張のついでに足を運ぶと、すごく喜んでくれた。
 卒業後初めて会ったけど、ラグマガなどを通して、こちらのことは知っていたと懐かしんでもらった。ベッドの横に立って話していると、穏やかな表情で言ってくれた。
「頑張ったね」
 その言葉が忘れられない。
 名もなきクラブを原点に、いろんな世界のラグビーに触れ、いま専門誌の編集を任されている。学生時代の自分を知っているから、そう言ってくれたのだろう。
「ラグビー界の方々は本当に優しいんですよ」
 素直な気持ちを口に出すと、笑って頷いてくれた。言いたいことは伝わったと思う。



 生きる時間がどんどん短くなっていく途中で、ヨコギさんはどうして当時の早明戦を見返したかったのか。
 その試合に心が震え、憧れ、目標に向かって走ったその頃の自分自身がいちばん好きだったのだろう。その情熱も、出雲高校ラグビー部の歴史の一部だと思うと、後輩たちを応援したくなる。
 正月大会の取材と重なって葬儀には足を運べなかったが、参列した方から当日の模様をうかがった。故人が亡くなる直前に書いた手紙が朗読されたそうだ。
「高校で花園や滋賀国体に出場したこと、大学では東京に行かせてもらいラグビーをできたことに感謝しています」



 人生の最後に、思い出すことはなんだろう。
 目を閉じれば思い出す光景を持っているっていい。



(文・田村一博)


 



【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。89年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。


 

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