ヤマハ発動機・西内勇人はラグビーを楽しんだ。首3度の手術で変わる価値観。
ヤマハ発動機ジュビロ(現・静岡ブルーレヴズ)の西内勇人は、28歳での現役引退を自分で決めた。
力強いレッグドライブからのボールキャリーに、恐怖を感じさせない「超」強烈なタックル。それらは相手の脅威となり、味方の信頼を得た。
でもその反動で体がもう限界だった。
3月28日、灘浜グラウンドで行われた神戸製鋼とのB戦が最後の試合になった。NO8で後半10分ごろまで出場する。
「その時にはもう堀川(隆延)監督にも伝えていたので、ブレイクダウンだったりは必死にやったつもりです」
前半終了間際には貴重なトライも挙げた。西内は「ピックですけどね」と笑う。
「親も見に来てくれて、弟(勇仁)とも一緒の試合に出られたので、コーチ陣にはとても感謝しています」
この日の体も決して万全の状態ではなかった。
トップリーグ2020では初の開幕スタメンを飾り、トヨタ自動車からの勝利(31―29)に貢献する好スタートを切った。だが後に膝の前十字靭帯を断裂。そのままシーズンを戦って、トップリーグ中止後に手術を受けた。昨年11月に復帰するも、今度は練習試合で首を痛める。
「もともと首は3回手術をしていて、脊髄損傷をしてしまっていた。右手の握力が入らなかったり、もうボロボロの状態でした」
今年の1月には現役を退くことを決めた。自分で決断したことだけど、ケガも実力のうち。自分の力不足で退団する感覚の方が強かった。
トップリーグ2021には出場がないままシーズンが終わり5月、チームから退団選手のリリースが出た。最初に連絡をくれたのは、東福岡で同級生だった布巻峻介(パナソニック)だった。2年、3年と同じクラスメイトでもある。
「布巻には結構前に伝えたつもりが、試合に出られないだけだと思っていたらしくて(笑)。『移籍すんの?』と言ってくれたけど、『辞めるよ』と。現役の時はずっとライバル(同じバックロー)で、あいつだけには負けないという思いがあった。でもあれだけタックルして、ジャッカル入ってる姿を見て、今はすごく尊敬しています。一緒にできて良かった」
西内の代(’92年組)は松島幸太朗をはじめ、2019年のW杯メンバーがずらりと並ぶ黄金世代。同郷の福岡では福岡堅樹、流大がいて、同じポジションでも德永祥尭がいる。西内はそんなメンバーの中で、U20日本代表ではキャプテンを務めた。ヤマハでも3年目には清宮克幸監督からバイスキャプテンに指名される。将来を期待され、自身もジャパンになると誓っていた。
「ジャパンになりたいとずっと思い続けていました。日本代表になりたい、ならなきゃいけないと。同じバックローの布巻や德永、山本浩輝(東芝)とはジュニアの時から戦ってきた。負けたくない気持ちが強過ぎるくらいありました」
そんな張りつめた思いは、度重なるケガの影響で徐々に変わっていく。特に重傷を負った首のケガは、長いリハビリを要した。1度目の手術は主将だった法政大4年時。ヤマハ加入1年目となった翌年も再手術を受けた。そして2018年に3度目。グラウンドに立てない分、自分と向き合う時間は多かった。
「長期離脱を繰り返すうちに考え方がだんだん変わってきました。それまでは人に見られているという意識の中でプレーしていた。でも何のためにラグビーをしているのか考えたら、ラグビーが好きだからだし、ラグビーを楽しみたいから。ラグビーを楽しめればそれでいいかなと。そういうマインドに変わって気が楽になりました。2018年に3度目の手術をしましたが、そのあとも試合に出られたのはそのおかげかなと思っています」
ケガに悩まされることも多かったけれど、小学生から始めたラグビーにやり残したことはない。これからは電動アシスト自転車を担当する部署で、主にモデル採算を行う社業一本に打ち込む。
「もともとあまり過去を振り返って後悔するタイプではありません。人生はラグビーだけではない。未来の楽しいことに目を向けて、社業も同じように頑張りたいです」
後悔はないと力強く言ったが、話していく中でひとつだけ後悔していることが見つかった。
「ヤマハというチームに対してもう少し貢献したかった。ヤマハは家族みたいなチームでめちゃくちゃ良いチーム。その分何かしてあげたかった」
ベクトルを未来に向ける中でも、その思いは大切にしたい。