海外 2020.07.27

同期カーターも祝福。アダム・トムソンがスーパーラグビー100キャップに到達。

[ 編集部 ]
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同期カーターも祝福。アダム・トムソンがスーパーラグビー100キャップに到達。
38歳でスーパーラグビー100キャップ到達のチーフス、アダム・トムソン。(写真/Getty Images)



 スーパーな舞台へのデビューは2006年。24歳の時だった。
 ダニーデンでおこなわれたシャークス戦に途中出場。カンタベリー平野のアシュバートンに生まれた男は、オタゴ大学で学ぶために移った街で、同地区代表、ハイランダーズと、プレーヤーとしての階段を昇っている途中だった。

 キヤノン、NECに所属し、日本でも活躍したチーフスのアダム・トムソンが、7 月26日にオークランドでおこなわれたブルーズ戦に途中出場した。
 その試合で、スーパーラグビーへの出場はちょうど100試合目。38歳で大台に到達した。

 この試合に後半23分からピッチに出たトムソンは、背番号19を付けて安定感あるプレーを見せた。
 FWバックファイブならどこでもできる。この日はLOの位置に入り、ラインアウトやモールの核として働いた。チームは17-21と惜敗して6連敗となったが、ベテランには存在感があった。

 クライストチャーチ・ボーイズハイスクールではダン・カーターと同期でチームメート。さらにキャプテン。
 そんなトムソンが100キャップ獲得までに長い期間を要したのは、平坦ではない道を選び、歩んだからだ。

 2008年、オールブラックスでデビューを果たす。チームはその前年、’07年のワールドカップ(以下、W杯)でフランスに準々決勝で敗れていたから、2011年の地元開催ワールドカップで頂点に立つことだけを考えていた。
 トムソン自身も「オールブラックスが立ち上がり、また走りだそうとしているときだった。だから私もそのために必死にプレーした」とチーム・ファーストのスピリットを貫いた。

 その思いが届き、漆黒のジャージーは24年ぶりにワールドカップを制す。トムソンも決勝のフランス戦でNO8として先発し、勝利に貢献した。
 2012年シーズンまで、同代表キャップを29まで積み上げた。

 同年までにハイランダーズで68キャップを得ていたトムソンは、2013年から4シーズン、キヤノンでプレーした。
 2011年のW杯優勝までは脇目もふらず全速力で走った。NZ国内で確固たる地位を築いた。欲しかったものを手に入れ、「環境を変えたくなった。言葉も通じない、文化も違うようなところで、ただジャージーを求める生活をまた送りたくなった」から日本へ向かった。

 安住を嫌う男は、常に刺激を求め続けた。
 キヤノンでの最後の2年間は、トップリーグのオフの時期にレッズ、レベルズでもプレーをする。そして、2017年からはNECにも在籍した。

 旅するラグビーマンを不運が襲ったのは、この年のクリスマスの頃だった。脊椎感染症で病床へ。57日間入院し、寝たきりとなったのだ。
 現在112キロある男の体重は、入院中に87キロまで落ちた。本人は当時の心境を、「かなり病んだ顔をしていたと思う。回復には多くの時間が必要で、ラグビーもできなかった。まずは、健康な状態に戻ろうとした。ただ、これでキャリアを終えるのではなく、自分の道を進もうと自身に言い聞かせていた」とNZのメディアに語っている。

 そんな状況からコツコツと努力を重ねたトムソンは、奇跡的な回復を見せた。
 2019年、米国メジャーリーグラグビーのユタ・ウォリアーズでプレー。その後、母国へ戻り、ノースハーバーでローカルクラブ(タカプナクラブ)に所属する。マイター10カップ(NZ国内州対抗選手権)のオタゴ代表との契約も勝ち取った。
 そして2020年のシーズン直前、FWにケガ人が多く出たチーフスから声がかかる。強い意志で道を拓いた結果だった。

 4季ぶりのスーパーラグビーの舞台は2月15日。秩父宮ラグビー場でサンウルブズと戦った。
 その試合でゲームキャプテンを務めたブラッド・ウェバー主将はトムソンについて、「憧れであり、尊敬できるキャリアを持つ選手と一緒にプレーできて嬉しい。チームに足りないものを補充してくれる存在で、その経験値はチームにとって価値のあるものだと思う」と話していた。

 100キャップ目のブルーズ戦後には、その試合には出場しなかったけれど、高校時代からの付き合いであるダン・カーターがピッチサイドに駆けつけた。
 祝福の声をかけ、ともに写真に収まる。永遠に続く友情が、そこにはあった。

 髪を伸ばしていた頃のニックネームは「ウーリー・マンモス」。
 毛むくじゃらの巨体でそう呼ばれた男は、きっと、こんな素敵な時間が忘れられなくてドン底から這い上がってきた。


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