コラム
2017.11.02
【田村一博コラム】愛と夢中。目白。スリランカ。そして宗像。
ラグビーに夢中。宗像サニックスブルースFL下山翔平。(撮影/松本かおり)
2016年の春だった。
東京・目白にある学習院大学のグラウンド。前年の秋におこなわれたワールドカップで、世界を驚かせた日本代表の廣瀬俊朗(現東芝コーチ)と湯原祐希(東芝HO)がいた。同大学ラグビー部OBが後輩たちのために、ラグビークリニックを頼んだからだ。
その途中、日本代表の精神的支柱である廣瀬と大学生の間で、こんなやりとりがあったのをおぼえている。質問コーナーでのことだった。
2016年度の学習院大学ラグビー部キャプテンの中川秀平は、過去に主将経験がなく、大役に不安があると相談した。
ジャパンのリーダーが答えた。
「チームを好きになる。仲間を好きになる。そうしたら信頼が生まれ、みんなが支えてくれる。それでええやん。キミと接していたら、ウラ、オモテがないことがすぐ分かる。一生懸命なのが伝わってくる。自分がチームのことを本当に好きになれたら、勝手にみんなも動いてくれるようになる」
2017年9月。初めてインド洋を見た。
同月中旬、アジア・セブンズシリーズの取材でスリランカの首都、コロンボ市内に滞在したときだ。ホテルから10分ほど歩くと、人が溢れるほど乗車している列車が走っており、その向こうに波打つ海が見えた。
曇天の下、白い波しぶきが上がっていた。
インド洋に浮かぶ象の国は思っていた以上にラグビーが根付いていた。
深夜に到着した空港。タクシーを手配してくれた若者は兄が高校のラグビー部でバイスキャプテンをしていたと話し、トゥクトゥク(三輪タクシー)を運転するおじちゃんがラグビージャージーを着ていたこともあった。
帰国の際、空港まで乗ったタクシーのドライバーも『RUGBY』と書いてあるTシャツを着ていた。大雨にもかかわらず、大会を眺めるファンも熱心だった。
「ガハナワー」
スリランカの言葉のひとつ、シンハラ語で、勝つ、ぶつかるという意味だ。
滞在中に会った大学のクラブの後輩・イトウは、同国で子どもたちにラグビーを教えている。指導中、「ガハナワー」と声を出すことがよくあるそうだ。2年の任期のちょうど半分ぐらいが過ぎていた。
日本を発つ前より体重が10キロほど落ちたというが、充実した表情をしていた。好きなラグビーに没頭できる毎日を「こんなに幸せでいいのでしょうか」と表現した。
「ラグビーを子どもたちに教える毎日。みんな、すごく喜んでくれる。ひまな時間も、練習のメニューとか、ラグビーのことばかりを考えています」
最初は話せなかった現地の言葉、シンハラ語も話せるようになって、スリランカの人たちとの距離が近くなった。特に子どもたちの表情は以前に増して輝いて見える。英語を話さない地方の人との交流も増えたという。
イトウは、人と触れ合うことが本当に好きなようだった。スリランカの楕円人たちもイトウのことを歓迎していた。
目の前の人を愛す。コーチングの第一歩。
シアワセな関係がそこにあった。
幼い頃から広島東洋カープを愛している。私の話だ。
1975年、セ・リーグで初めて優勝した。その歓喜の瞬間を、宮崎・日南市立油津小学校からの帰り道、流れてきたラジオの音声で聞いた。
カープが毎年2月にやって来るキャンプ地で小学校4年のときから中学校3年時まで過ごした。カープが草創期に市民からの樽募金で財政難を乗り越えた話を聞いたり、若手の育成や猛練習で強いチームになったことを知って、好きになった。それ以上に、キャンプでの練習の合間に選手たちと触れ合えたことが嬉しくて大好きになったのだけど。
あるとき、のちに韓国プロ野球で最多勝投手になった福士明夫が自転車のうしろに跨がったことがある。球場から宿舎に帰る途中の同投手にサインをねだると、「乗せてってよ」と言われたからだ。友人のオシカワは新美敏(投手)を乗せた。
そんなことが友だちにもたびたび起こっていたから、キャンプ期間中は、いつも教室で報告会が開かれていた。
そんな原体験があるから、ラグビーでも同じようなチームを好む。
叩き上げの選手がいる。よく練習する。宗像サニックスブルースには、昔のカープと同じ匂いを感じてきた。
福岡県宗像市がホームのブルース。海からの風や砂を防ぐ松林に挟まれた場所にクラブハウスと練習場がある。グラウンドの入り口は、目の前にあるラブホテル「JOY SEA SIDE」が目印。そんなトップリーグチーム、他にない。そんなところもいい。
10月末のジャパンの合宿時、あまりに便がいいからと、ある記者が「JOY」に泊まったら、「ひとりなら、となりの声が聞こえない方がいいわね」とはなれの部屋を用意してくれたそうだ。
ブルースは、そんな、あったかい人たちにも応援されている。
チームには叩き上げの選手が多い。学生時代にスポットライトを浴びたことはないけれど、ラグビーと、このチームのスタイルが好きで、よく練習し、宗像の地でトップリーグの舞台に立つチャンスをつかんだ者が何人も。そのうちのひとりがフランカーの下山翔平(したやま・しょうへい)だ。
鹿児島大学出身。今季序盤、同窓の東芝ルーキー、SO中尾隼太が開幕から4戦続けて先発して話題となったが、同大学出身トップリーガーの元祖はこちら。宗像サニックスに加入して今季が4年目だ。
昨季は途中出場が2試合だけだったが、今季は10月までに4試合で先発した。
長崎北高出身。高校日本代表候補に選ばれたものの地方国立大に進学した。教員になるためだ。U20日本代表としてアジアラグビージュニアチャンピオンシップに出場したこともある。大学1年の夏のことだった。
その後は桜島を見ながら、土のグラウンドで楕円球を追う日々を送っていたが、情熱は変わらぬままだった。大学4年時にはキャプテンとしてチームを牽引し、全国大学選手権に何度も出場している福岡大を破るゲームで先頭に立つ。
ブルースから声がかかった。教師への思いをひとまず懐にしまい、夢を追う決断をした。
大学時代まではアタックでも目立った下山だが、トップチームに入って「攻撃力のある人は他にいくらでもいる」と感じた。タックルに生きるようになった。そして、ラグビー漬けとなった宗像での日々は刺激があった。
「以前とは比べものにならないくらいの情報量でした。将来、教員になったときに生かせたらいいな、と思ってきました」
教員免許は持っている。だから、将来のことも頭に描きながら生きていたが、最近その思いが少しずつ変化していると言った。
とにかく「いま」が充実しているからだ。
この生活をとことん続けたい。
今季、それほどラグビーが楽しい。夢のようだ。
東芝戦ではキックカウンターから豪快に走るなど、気迫みなぎるリーチ マイケルに挑むなど、体を張り続けた。
「一度は倒せたけど、一度は抜かれました」
26歳の表情は紅潮していた。その試合では、元オールブラックスのリチャード・カフイにも刺さった。
今季はイエローカードをもらう試合もあったが、そのときの相手は憧れの人だった。
「サントリー戦でした。ジョージ・スミスの足もとに低くタックルにいったのですが、勢い余ってバインドできなかった。レフリーに『グラスカッター』と言われました」
何をやっても楽しい。いつまでも続けばいいのに。
下山は、自分だけが特別なわけではないと思う、と言った。
九州学生リーグでプレーしているとき、他チームにもいい選手がたくさんいた。みんな本気でやれば、諦めなければ、必ずやれる。
自分自身、好機をつかもうと思って毎日を過ごしていたわけではない。「(強い情熱が)終わりかかったこともある」と振り返る。でも、ラグビーが好きで、仲間がいて、「どうせやるんだったら」のスピリットで走り続けたら、いいことがあった。
「自分やハヤタ(東芝・中尾隼太)を見て、自分にも可能性があると思ってくれる人がひとりでも増えたら、と思います。鹿大のラグビー部にも遠くから進学する人も出てきてくれたようで、ホント嬉しいですよね」
輝いている人に会い、話すと、誰もが愛について話す。
ラグビーへの熱。友への思い。それらが重なってみんなこのスポーツに夢中になり、さらなる深みを知る。
2014年の春、諫早ラグビークラブの設立記念式典で久米俊一代表が言った言葉が好きだ。
「子どもたちに、無我夢中のうちに涙があふれるような体験をさせてあげたい」
愛と夢中は、成功の原点。
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。1989年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。