コラム 2024.07.31

【ラグリパWest】ベテランの味。鶴田諒 [レッドハリケーンズ大阪/SH、WTB]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】ベテランの味。鶴田諒 [レッドハリケーンズ大阪/SH、WTB]
36歳のベテランとしてレッドハリケーンズ大阪をけん引する鶴田諒。SHとWTBをこなす。横のマネキンは自身がトップリーグとそれに続くリーグワンで100試合出場を挙げた時の記念ジャージーを着用している。この快挙はチームの現役では鶴田のみである。

 鶴田諒は<つるだ・りょう>と読む。
「実家の周りに鶴田姓は3軒ありましたが、すべて、つるた、でした」
 この姓は生まれ育った山梨に多いが、濁点がつくのは珍しい。実家はぶどうの「王さま」、紫に輝く巨峰を作っている。

 その姓の希少性はラグビーに重なるようでもある。鶴田はパスのSHと走るWTBの両方をこなせる。その能力を今、大阪で発揮する。ほうとうから麺類はうどんに移ったか。

 所属のRH大阪の首脳陣にとって、2つのポジションをこなす鶴田は使いやすい。「宝」でもある。チーム現役唯一の<トップリーグ&リーグワン100試合出場者>だ。昨年3月19日のSA広島戦で達成した。7人制日本代表に選ばれた実績もある。

 鶴田は今年12月に36歳になる。
「肩たたきはありませんでした」
 今月1日に始まった社員選手の全体練習に参加した。まなじりは尖り、口元は引き締まる。ベテランらしく表情に甘さはない。

 RH大阪の正式名称は「レッドハリケーンズ大阪」。先のシーズン、リーグワンのディビジョン2(二部)で、6チーム中4位だった。鶴田は全12試合中7試合に出場した。

 RH大阪に移籍したのは2年前のこの時期だった。ドコモと鶴田のいたコミュニケーションズによるNTTチームの再編があった。ドコモのRH大阪は社員選手、コミュニケーションズの浦安DRはプロが軸になった。

 プロになっても先は長くない。チームを変えるのはチャレンジになる。良き面を見る。
「食い倒れの大阪は美味しく、楽しいイメージがありました。そこに住める、と」
 中高の修学旅行は関西だった。家族4人で千葉からその拠点を変えた。

 コミュニケーションズへの加入は2011年。思い出深いのはその11月、トップリーグで神戸製鋼(現・神戸S)を初めて破ったことだ。19-10。鶴田はSHで先発した。

「最後は13人。僕とSOのクレイグ・ウィングが反則の繰り返しでイエローカードをもらいました。だから、余計にうれしかったです」

 WTBとの兼任になったのは、SHでは高めの174センチの身長を見込まれたからだ。
「4年目か5年目でした」
 WTBにケガ人が多く、コーチだった栗原徹によって練習試合に起用された。
「ボールをもらう時にちゃんとトップスピードになっている」
 鶴田の可能性を広げた栗原は今、浦安DRのコーチングコーディネーターである。主にFBとしての日本代表キャップは27を持つ。

 このチームとは東海大時代から縁があった。日本選手権では1回戦で戦った。3年時の47回大会(2009年度)である。同期でFBの豊島翔平がトライ寸前、中央に走り込んだ鶴田にパスをした。ゴールキックの成功率を上げようとした。

「パスが悪くて、とれませんでした。ノックオンではありません。そのまま相手にボールが渡ってしまいました。さらに、その映像がYouTubeに上がってしまいました」

 試合は7-11で敗れる。結果論から言えば、豊島がスコアしていれば勝っている。
「その2人が誘ってもらえたのです」
 勝たせてもらったお返しなのか…。豊島は鶴田と違い東芝(現BL東京)を選び、現役を続けている。

 東海大は日本選手権に先立つ大学選手権で準優勝していた。46回大会は帝京大に13-14。初の決勝進出だった。鶴田、豊島を含め同期12人が先発した。その中にはリーチ マイケルもいた。当時はFL。日本代表ではキャップ数を87に積み上げている。

「帝京はレフリーとのコミュニケーションも含め、試合巧者でした。ただ、あの時、負けたから今があると思っています。勝っていたら、手を抜いていたかもしれません」

 鶴田は1年生から卒業まで、秋にあった41の公式戦すべてに出場した。
「加藤さんが夏合宿で抜擢してくれました」
 当時のコーチは加藤尋久(ひろなが)。母校の明大やキヤノン(現・横浜E)のコーチを歴任した。加藤は神戸製鋼の現役時代、SOとして日本代表キャップ2を得る。

 加藤には言われた。
「はしの持ち方がきたない」
 鶴田はいわゆるクロス箸だった。並行ではなくエックスの形に持ってしまう。
「すぐに直しました」
 その素直さを加藤は買ったのだろか…。助言を受け入れれば、成長は概して早い。真相はどうあれ、鶴田にはユーモアがある。

 東海大は監督の木村季由(ひでゆき)が声をかけてくれた。日川の3年時の全国大会は1回戦負け。86回大会(2006年度)は高鍋に5-14だった。その後、高校の東西対抗に選ばれる。

 競技は中3の部活として始めた。学校は笛川(てきせん)。顧問に勧誘された。
「ラグビーは季節部で秋と冬にやっていました。夏までハンドボールをしていました」
 その動きに非凡さを感じた岡昌宏が日川に誘う。当時の監督だった。

 15の年から始めた競技は22年目を迎えた。目標を口にする。
「ディビジョン1(一部)への昇格です」
 今冬から始まる新シーズン、二部は2つ増え、8チームになった。昇格レースはさらに過酷になってくる。

 勝ち抜きへ、RH大阪の一体化を感じる。
「選手の間には最低限の上下関係があるだけで、スタッフとの距離も近いですね」
 雰囲気は似る。コミュニケーションズが浦安以前、同じ千葉の二俣にグラウンドを持っていた時代だ。リーグワンで二部スタートのチームは一部で最高5位まで上がった。

 そのよきムードをさらに盛り上げてゆくためのベテランの存在である。鶴田は我がことよりも、赤いジャージーの勇躍に残りのラグビー人生をかける。

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